1535年 蒸気機関の進歩 元就の側室追加
蒸気機関を導入を開始して7年が経過し、順調に技術の蓄積ができていた。
反射炉も完成し、鋼の生産量も増えた事で蒸気機関はさらなる改良と発展が行われ、新しい機械が誕生していった。
まず軍事では大砲が開発された。
技術水準が幕末レベルまで職人達の育成をすることができたので、鉄砲に細かなライフリング加工をするのは量産性の問題で研究段階であったが、それよりも大型の大砲にはライフリングが施された物の開発に成功していた。
四斤山砲……史実では幕末から明治初期の混乱期に使用された前装式の大砲で、フランスから輸入していた物である。
四斤は砲弾の重量が4キロであることを示し、射程2.6キロと城攻めや野戦にて活躍出来る兵器の量産が始まっていた。
重さが約200キロあるが、ばんえい馬を中心に育てた事で1頭でも200キロなら十分に引ける重さであり、大砲を使用する兵は多少行軍スピードは落ちるものの、歩兵に比べれば十分な速さで移動することが可能であった。
産業面では塩作りの海水を汲み上げるポンプが蒸気機関になったことにより、風力に頼らない汲み上げが可能になり、生産量が倍増塩の値段が更に下がる結果になり、醤油等の塩を使う製品の値下げにも繋がっていき、塩が庶民にも十分に行き渡るようになっていった。
またこの頃になると綿花栽培も広がりを見せ、米作りに適さない場所では綿花が作られ、それを糸にしたのが毛利家が工業地域に選択した現在の広島の町に流れ、未来から設計図や模型から作り上げたミュール紡績機の入った工場によって大量の布が生産された。
他にも生糸生産の為に富岡製糸場の資料を取り寄せた彩乃は職人達と話し合って繰糸器や繭を殺す煮沸器等の生糸を作るのに必要な機械や場所を5年の歳月をかけて建造し、1535年に遂に工場が稼働を開始したのである。
初年度生産量はトラブルや工員達が慣れていなかった事もあり1500キロ程の生糸が生産されたが、翌年には5000キロ、更に翌年には1万キロの生糸が製造されるようになり、毛利領内の養蚕業が増える事に生産量が上がっていった。
国内向けが殆どであったが大内領で生糸は大内織(西陣織)に加工され、美しい絹織物になると国内だけでなく海外に輸出されるようになり、勘合貿易や南蛮貿易の主力商品へと成長していく事になる。
一方で農業の方は頭打ちになり始めており、椎茸も生産量が増えた事で国内の相場が低下し始めており、生産量を調整する羽目になり、真珠やアワビの養殖により出た貝殻をぼかし肥料の材料にすることで肥料の生産量は上がったが、それでも米の生産量は頭打ちになっていた。
米価も下がっていたのだが、この年から隔年で約10年間飢饉が各地で発生するようになるので米価は上昇し、豪農と呼ばれる人達が大内勢力圏では現れるようになり、その豪農が養蚕だったり醤油や味噌等の加工品の生産を行い始め、企業家へと成長していくのであった。
土佐や伊予の様に米が十分に作れない土地では順調に他産業が育ち始め、土佐のサトウキビ栽培もようやく軌道に乗った。
こちらは蒸気機関では無く川に設置した水車を用いた水力により砂糖の生産が行われ、50万トン近くを生産し、市場価格を破壊。
土佐に富が大量に流れ込み、その金を使って牛、豚、鶏、羊、馬の生産地を拡大。
特に羊の羊毛や牛の皮を加工する工場を建設し、羊毛の衣類や皮製品で金を産み出し、他所から米を購入するスタイルを構築するのだった。
西日本で富が集中するということは東日本ではどうなるかというと、東日本の富が西日本に吸い取られていた。
越後の青麻の様に確固たる産業基盤があるところは米価が下がった事で生活水準が上がった地域もあったが、甲斐の武田家みたいな鉱物資源に頼っているところは悲惨で、金を銭代わりに支払って何とか飢えを凌ぐ有様。
今川家も富を吸収されて史実みたいに栄える事は難しくなっていた。
逆に大きく飛躍した地域もある。
尾張だ。
東日本の富が西日本に流れる中継地だったこともあり、史実以上に富が流れ込み、周辺諸国を圧倒する経済規模を誇っていた。
まぁその富を十二分に活かせるようになるのは、信長の父織田信秀の権力が高くなってからの話であるが……。
ちなみに1535年には彩乃の子供の数は19人に到達しており、1530年から6年連続で子供を産んでいた。
彩乃に負けじと頑張りたかった怜であったが8人目の麻を産んだ時に大量出血をしてしまい、彩乃が未来に連れていき、一命は取り留めたが、子宮摘出の手術となり、子供が産めなくなっていた。
まぁ怜もその時33歳だったし、男の子を3人も産んでいたので十分と思っていたみたいである。
一族の出産ラッシュはまだまだ続き、房元の奥さんの梓は8人目を出産し、嫁いでから10年で8人なので彩乃を超えるペースで子供を産んでいた。
盛就の妻の鶴も4人目にして待望の男児を出産し、小早川鳥光の奥さんの松も2人目を出産。
吉川興経も男児が産まれ、順調に毛利一族が増えていた。
この時点で毛利元就の子供と孫は42名になっており、毛利家男児が3人だった頃に比べて凄まじく増えていた。
で、彩乃は子沢山の秘訣としてオギノ式とラジオ体操、マタニティヨガを毛利家の女達に広めており、それが健康に沢山子供を産む秘訣としていた。
ただ元就の性欲はまだまだ元気……というより前よりも凄くなっているので、怜が産めなくなって彩乃1人で捌いていたが、それもだいぶきつくなってきたので元就の側室を息子達に探すように言ったところ、沼田小早川家が毛利家に臣従したいと申し出ており、臣従の証として重臣の乃美隆興(両小早川家の親族で沼田小早川家の重臣……なんなら父は竹原小早川の当主だった人)の妹を差し出してきた。
「お前さん幾つじゃ?」
「大です! 今12歳(数え年)になります!」
「彩乃側室若すぎるじゃろ! もう少し年上をじゃな!」
「そう言うと思って三吉からもお嫁さんもらってきたよ」
「三葉です! 子供産めます! よろしくお願いします!」
「歳は?」
「15です(勿論数え年)」
「若いのばっかりじゃな! ワシもう39(数え年)になるが良いんか?」
「「普通では?」」
戦国時代では普通である。
とりあえず沼田小早川の大姫と三吉から三葉姫が元就に嫁いでくるのだった。




