1533年 西国の覇者の後継者(大内義隆視点)
「殿、毛利の力が過剰になりつつあります。力を削ぐ事をしませんと大内にとって悪いことになるやもしれません」
長門守護代で大内義興時代からの重鎮内藤興盛が大内義隆に忠言する。
「分かっておらんな興盛は房元や盛就が私を裏切ることなど無い」
「しかし……」
「いや、何も忠誠心とかだけで言っているわけではない。経済的な観点から見て話している」
まぁ座れと義隆は興盛を座らせると、机に紙を広げ、スラスラと何かを書いた。
「これは?」
「大内家の収入だ。今私は元からあった5カ国(石見、長門、周防、豊前、筑前)の他に、今回の乱鎮圧で豊後、肥前、筑後の3国を有した事になった。いや、支配しているだけなら安芸、伊予、土佐もそうだな……合計11カ国の太守が私だ」
「大規模な検地をしていないから税収から逆算するしか無いが米だけでも11カ国の予想生産量は240万石……金にすると120万貫だな。実際に大内家に入ってくるのはこの5分の1程度……24万貫だな……これが昔までの計算だった」
「案外少ない物ですね」
「ただ毛利房元から米の収穫量を4倍から5倍に引き上げる農法と神米と呼ばれる米が流入した。安芸ではそれに毛利領は15万石程度だったが70万石程の米の収穫を実現し、これを大内家にも伝えた。来年の予想の収穫量は240万石の4倍として960万石……この5分の1を金に直すと96万貫……あら不思議、最初の120万貫に近い数字になった」
「それと毛利の脅威が無い理由が分かりませんが」
「毛利家はちゃんと大内家に貿易を通じて税をしっかり払っているんだよ。それに毛利が大内家と敵対するなら農法を広めることで大内家の強化を施す事なんかしなくて良いからな。やるだけ強くする行為だ」
「な、なるほど」
「それに毛利家からは様々な明に輸出する商品が作られている。椎茸、蜂蜜、最近だとアワビや真珠なんかもそうだろう。大内家の作る工芸品も合わせると莫大な金になる……興盛、今年の勘合貿易の利益を言えるか?」
「あ、いや、えっと……50万貫くらいですかな」
「正解は8倍の400万貫だ。そしてこれに石見の銀山や北九州銀山等の銀収入が約100万貫入ってくる。大内家は約600万貫を自由に動かすことの出来る大名というわけじゃな。日ノ本一の金持ちよ」
「つまり毛利家は取るに足らない勢力と?」
「甘い甘い、大内家と毛利家は共生関係。大内家から見た毛利家は勘合貿易の輸出品を生産してくれる取引相手で毛利家が潰れるとその分減収となる。逆に毛利から見た大内は潰れたら勘合貿易による収入が途絶えて軍の維持すらままならない存在よ」
「軍は関係ないのでは?」
「大内家は軍を軍権を与えた諸将が集める事になっているが、毛利家では銭を兵に支払うことで軍を維持している。中華の晋王朝が用いた軍が1軍1万2500人を定員としていたからこれに近い。常備兵は農兵をかき集めた軍より攻撃の自由が効く点だがとにかく金と権限が必要だ。大内家には真似することができない」
「ただ大内家は集めようと思えば10万の軍勢を動員出来るのに対して毛利家の周辺勢力が同調しても2万が限界だ。その戦力差も大内家と毛利家が敵対することの無い要因でもある」
「しかし、それでも削った方が良い気がしますが……」
「私はわかっているが、他の者には毛利家が大領を得ている様に見える……だから先んじてこちらは妹の梓を渡したし、房元もそのことをよくわかっているからもう少ししたら嫡男の新太郎を人質として送り出してくる予定になっている」
「そうなのですか……」
襖が開き、陶興房が入ってくる。
「内藤殿、義隆様の言うように毛利家の権限を削るは悪手ですぞ」
大内家の軍師を務める陶興房に言われると内藤興盛は何も言えなくなる。
「義隆様、吉川興経から黄金酒(蜂蜜酒)が届いております」
「おお、頼んでいたのが届いたか、興房も興盛も飲め飲め」
「ではありがたく」
「いただきます」
大内義隆から注がれて3人で黄金酒を飲む。
「ぷはぁ! 美味いなぁ吉川の黄金酒は」
「そうですね、また味が一段と良くなった気がします」
「蜂蜜が大量に採れる毛利ならではですな」
一息入れて、陶興房が毛利家を削ってはいけない理由を話す。
「まず忠臣に難癖を付けて権利や所領を削るのは悪しきやり方です。多くの中華帝国がそれで国が割れる内乱になっております。それに東を毛利が固めてくれるお陰で大内家は北九州に注力したり、内政に注力することが出来るのです」
「興房の言うように毛利が居るから西に注力できているし、私達は台湾経営という日ノ本の拡張をしている最中だ。それに水面下で朝廷より大内の上洛を求める声が日に日に高まっているのだ」
大内義隆は家督継承した1529年から明より台湾の領地を譲られており、大内家による台湾開拓が進められていた。
大内に反対する勢力や流民を送り込む事で北九州の統治を容易にする要因となっていた。
この年(1533年)に鎮圧した少弐氏に与した国衆達も台湾に送っており、少弐氏の復活の可能性を低下させた。
その台湾に送られた者の中には龍造寺家の者もおり、それが奇しくも少弐氏残党による龍造寺の誅殺を生き延びることになり、龍造寺隆信が出てくる芽が無くなるのであった。
そして京では幕政は、堺公方の混乱と現将軍足利義晴の後見をしていた有力者達が大物崩れという事件で討死か自害してしまった為に双方影響力が消失しており、京にどちらも将軍不在が4年も続いていた。
そんな頼りない幕府に変わり京を守ってほしいと朝廷から度々大内義隆に上洛の要請が届いており、望んでいた官職である大宰府大弐の職も与えられていた。
とりあえず京の貴族達には逃げてきたら支援は行うと約束しており、日に日に京から山口に落ち延びる貴族達が増えていたのである。
史実以上に財源が強化されている大内家では貴族保護だけでなく技術投資を行い、史実よりも早く西陣織の技術を確立し、毛利家から輸入する生糸で美しい織物を作り、それが台湾を経由して広がった貿易から黎朝との交易路が広がり更に富を得る循環が出来上がっていた。
また大内家でも火薬の製造技術を明から技術者を引き抜き、火薬の研究を毛利に遅れながら始めたりもしていた。
そんな大内家は1540年に上洛を目指した内政に着手し、毛利との連携を強化するのであった。




