1530年〜1532年 北九州争乱 塩冶興久の乱
毛利家が戦後処理で忙しくなる中、年が明けて1530年に竹原小早川家に毛利興元の遺児亀が、安芸守護代の蔵田房信の息子、隆信に松が嫁ぎ、安芸国における毛利の存在感は絶対的となった。
いや、安芸国だけでなく伊予と土佐を大内義隆からの代官として統治しているため3カ国を統治する大内従属大名となり、伊予ではアワビと真珠養殖を開始し、土佐ではサトウキビ栽培を開始することになる。
愛媛、土佐には鉱山が多数あり、安芸国では少量しか採掘できなかった硫黄や銅鉱山が多数あり、採掘に着手。
硫黄は火薬製造にも必要なので採掘量を増やしていった。
あとは愛媛はミカンの未来の産地なので、安芸の毛利領内で育てていた大量のミカンの木を移植し、蜂蜜の生産も並行して行わせる。
現在も安芸のミカンが市場に流れ始め、山口の貴族達や博多商人が美味い美味いと食したため、西日本を中心に市場が拡大していた。
養蜂の蜜源にもなるし、四国は水源に乏しくて米の栽培には向かないので果樹園を作りミカンや栗を栽培し、残った土地で小麦や芋の栽培を行い、米は安芸や大内領内から引っ張ってくる事なった。
それは土佐も同様で米栽培に向く土地が少ないため、四国を管理している毛利盛就は砂糖生産と家畜、漁業に舵を切った。
土佐では禁忌にされていた鶏を食すことを隠れて行っていた農家も多かったので、養鶏養豚を推奨し、砂糖と他所より気温が高いことを生かして香辛料栽培を大規模に行うことで他の国と差別化を図った。
そのため他所から米を輸入する量が増えたため、安芸で50万石くらい米を生産している毛利領でも流石に2国を養うには怪しいということで房元は毛利の農法を大内に伝える決断をする。
現在大内家の直轄地は筑前、豊前、周防、長門、石見の5カ国と影響下にあるのがほぼ毛利領の安芸、伊予、土佐に、北九州の筑後、肥前、豊後。
大内家に農法を伝えるということは西日本中……いや統制不可能なので日本中に広めるのと同等であるが、毛利家は他の特産品でも稼げるのでそれよりも米価を下げることで土佐と伊予の負担軽減の方が大切であると判断した。
というか伊予西部と土佐の土地は現状毛利家の負担でしか無いので……。
特に土佐の長宗我部国親が中心となりゲリラ戦を展開しているため統治コストが跳ね上がっており、毛利家の経営を圧迫していた。
ただそんな土地を盛就と元就が育てた奉行衆は切り盛りしており、砂糖栽培が軌道に乗れば何とか黒字に持っていけると試算を出していた。
伊予西部を任されている毛利鳥光も妹の愛に会えないことを嘆きながらも政務に取り組み、大洲城を本拠地として伊予西部の統治を頑張り、吉川に養子に出され、統治が苦手(それでも他所からしたら十分に国を富ませている)吉川興経が
「オラじゃなくて良かったぁ」
と安堵しているくらい伊予と土佐の統治は難しかった。
米の技術を受け取った大内義隆は安芸の米の生産量が跳ね上がっているのは経済の流れから読み取っていたのでこれを自領だけでなく服従している北九州諸国にも強制したが、過度な内政干渉であると不服に思った大友重治は少弐氏と組んで再び大内家に反乱を起こした。
「なんで良いことを教えただけで反乱するんだよ……訳が分からねぇ。プライドよりも実利で食えよ……」
と、大内義隆が大友重治の理由のわからない行動に困惑しながらも大内義隆は各地から5万の軍勢を集めて反乱を起こした筑後と豊後、大友重治に任されていた肥後の3カ国に侵攻。
大友重治は大内家の家臣を粛清していたため指揮官不足や豊後での求心力が低下していたため、陶興房と杉家の軍勢に蹴散らされて豊後から逃走。
肥後にて徹底抗戦の構えを見せるが肥後の阿蘇家は大内家に所領安堵を約束してもらい降伏。
頼みの綱だった阿蘇家が早期に降伏した事で大友重治の戦略は破綻し、家臣の裏切りにより死亡。
一方で少弐氏は地域勢力を巻き込んで反乱を大規模化させて徹底的に戦い、鎮圧するのに支えていた龍造寺家を大量の金品を贈る調略で切り崩し、少弐氏に靡く勢力を根絶やしにする徹底した攻撃で3年の時間をかけて攻撃した。
元就は呼ばれなかったが、当主の房元や吉川興経、元服したての毛利三毛丸こと毛利元秋や毛利虎丸こと毛利就虎、相合元綱他家臣達も多く出陣し、元就が国元を守ることになるのだった。
この北九州仕置の最中に竹原小早川家当主の小早川興景が陣中で病没し、家臣達の推挙と大内義隆の命令で西伊予を担当していた毛利鳥光が小早川家に養子入りし、従兄妹だった亀と結婚し、竹原小早川家を継承。
そのまま九州戦線に駆り出され、鳥光が抜けた分も盛就が頑張る羽目になるのだった。
盛就がブラック企業も真っ青なデスワークをしている頃、大内家が動けないと判断した尼子経久が再び動き出す。
伯耆方面から美作、因幡を次々に攻略し、備後に侵攻。
備後に侵攻した尼子軍は元就が救援に駆けつけた事で侵攻失敗するが、続いて備前と播磨を侵攻し、赤松家等を国外に追放する。
これで一息付いたと思いきや大内義興時代から調略していた尼子経久の三男塩冶興久が出雲を2分する反乱を起こす。
これによりせっかく広がっていた領土は美作を残して再び失陥し、元就も史実と違い尼子経久に加担しなかった事、塩冶興久に物資を大内名義で元就は送り、内戦は長期化。
史実は4年だったが7年以上に乱は長期化し、尼子経久時代の尼子は今後一切拡張が出来ない傷を負うことになる。
逆に元就は尼子による備後侵攻を守った事で備後国衆の心をガッチリ掴み、連絡するパイプを構築。
備後衆から大内義隆に連絡する時も元就を経由し、蔵田房信、そして大内義隆に伝わるようにしたので元就に備後の仲裁等が頼まれるようになり、それを解決していくのでますます毛利の信用が備後で広まるようになるのだった。




