1527年 1528年 錬金術 蒸気機関開発 高炉
未来の力を使って彩乃は錬金術を行う事にした。
まずは小谷銀山から産出される粗銅から銀を抽出する方法であるが、粗銅を鉛と一緒に溶かして徐々に冷却していく。
すると銅は固体、鉛は液体となる温度に保つと銅が結晶化し、純度の高い銅となる。
次に鉛には金銀(今回の場合は銀)が入っているので融解した状態で灰の入った坩堝に液体を流し込み、空気を吹き付けると酸化銀と鉛に分離する。
この工程を合吹き、南蛮絞り、灰吹きと呼ばれる。
ちなみに現在の日ノ本では合吹きしかしてないので粗銅の中に金銀が入っており、中華や朝鮮が日ノ本の粗銅を輸入して精錬し、利益を得ていた。
そんな美味しい思いをさせるほど元就達は優しく無く、彩乃の実験によって合吹き、南蛮絞り、灰吹きを覚えた職人を大内義興に派遣し、精錬方法を伝授。
すると石見銀山の銀生産量は一気に増加し、銀1万5000貫(石高計算で150万石分)を生産し、大内義興はそれを明との勘合貿易で金と交換する。
この時期の明の銀交換レートは1:4.5から1:5。
明銭の流出よりも金流出の方がマシと考えた明はこの交換に応じてしまう。
大量に流れ込んできた金を元手に大内義興は1:6レートで日本で換金し、差額で更に儲ける事をしつつも各地から銀を集めた。
小谷銀山から採掘された銀を大内家の交換レートで金と交換する。
まぁ銀60キロが10キロの金に交換……この金を延べ棒に加工し、未来に持っていき、未来で所有者が亡くなり、格安で売られていた土地や建物を買い取り、蔵の床下から金の延べ棒が発見したと警察に持っていき、埋蔵物の観点で前の所有者と折半が普通であるが、今回の場合だと発見者が貰う事が出来るので、警察から所有者の変更を行ってもらう。
約半年この手続きが必要なのでそれが終わったら金の延べ棒10キロを換金すると1億6000万、ここから銀60キロを未来で買うと約1000万で買えてしまうので銀を1億円分600キロ購入する。
銀相場が上がるので実質1億500万くらいで買うことになるが、それを戦国時代に持ち込み、今度は堺に持ち込んで東国の金と交換……タイムラグがあるので堺の交換レートも1:6くらいなので金100キロと交換になる。
不純物を取り除くと90キロくらいまで減ってしまうが、それをまた金の延べ棒にして今度は豊臣埋蔵金を装って、それが発掘された事を装う。
認識阻害でニュースにはならなかったが金相場が一時下落したがそれでも換金すると13億5000万くらいになる。
それをまた銀をそこから更に1トン近く銀を購入し、彩乃は10億の資金を、毛利家は元手の約16倍の銀を入手したことになる。
認識阻害してなかったら盗んだ事が疑われそうな案件である……。
凄まじい錬金術であるが、貫計算に直すと1トンの銀は約267貫、小谷銀山の採掘量のが初年度が3トンだったので銀800貫……石高計算で約8万石と同じ計算になる。
彩乃の錬金術で稼いだのは約2万6700石……そこまで経済破壊はおこさないが、未来で使えるお金が10億も増えた事に意味がある。
酷い錬金術であった。
彩乃は稼いだ金で蒸気機関に関する書物や蒸気機関の模型、青写真を大量に持ってきて専門チームを交えて蒸気機関開発に着手。
鉄砲作りや旋盤の普及により基礎工学が上がっており、青写真や模型を用いての蒸気機関の開発に3カ月で成功。
それを青写真を元に理論を突き詰めてどんどん改良していき、1年もかからずに初期の実用的な蒸気機関の開発に成功する。
川の少ない毛利領内では蒸気機関のパワーが必須。
更に大内に交渉して北九州……特に豊後から産出される石炭を輸入し、蒸気機関に組み込む事で小谷銀山では爆発採掘、蒸気機関を用いた地下水の排水、地下にレールを敷いてトロッコを地上に引っ張る等で採掘量を一気に引き上げた。
蒸気機関の製造には大量の鉄が必要……そのため房元は未来の書物から産業革命について学び、10年以内に高炉による製鉄と反射炉による鉄から鋼の生産を目標に動き出すこととなった。
そのため、彩乃が大量の耐火性レンガを運ぶことになり、コンクリートも用いて耐火性レンガを作る窯を幾つも作り、大内から瓦職人を呼んできて大量のレンガを製造させた。
翌年になりレンガを組んで設計図に従って高炉を建設開始し、5回ほどの失敗を得て、高炉の建設に成功し、宍戸領で取れる鉄鉱石を用いて試運転を開始し、これに成功したことで、たたら製鉄の数倍の鉄生産量を実現する。
たたら製鉄で作る和鉄は刀や槍に向くが、高炉で作られる鉄は農具や工具、採掘道具、そして鉄砲を作る鉄に向いており、生産量の少ないたたら製鉄の玉鋼を全て武器生産に割り振り、民用品を高炉で作られる鉄に切り替えることで鍛冶職人需要を満たし、農具が足りていなかった農民達にも比較的安く鉄製の農具が流通することになり、土地の開墾作業が広まっていった。
鉄鉱石の需要が高まり宍戸領にもダイナマイトによる爆発採掘法と蒸気機関による運搬、排水法を教えることで大量の鉄鉱石を採掘し、大内から石炭を輸入することで毛利の工業化を推し進めた。
1526年から1528年の間大内も大きな動きをすることは無かった。
大内にとって将軍は敵対しているが、それ以上の事を起こす必要も無かった為に内政や勘合貿易の規模拡大に注力し、勘合貿易の頻度を2年に1度から半年に1度まで頻度を増やし、春は銀を、秋は椎茸等の産物を中心に売り込むことで明の要望を満たし、大内家はますます資本を蓄えることになる。
一方で中国のもう一つの勢力である尼子は尼子経久の計略や軍事的才能で何とか出雲、伯耆の勢力を整理し、国境付近まで山名は庄等の反尼子勢力を押し返す事に成功。
一応の均衡状態となり、束の間の平穏が漂っていた。
1527年にスライドしていた鶴と盛就が結婚、平穏だと子作りに精が出るのが毛利家で1527年に彩乃が霧丸を、1528年には暁丸という両者男の子を出産。
怜も蘭という女の子を出産し、梓も梅と竹という女の子をそれぞれ出産。
鶴も1528年に茜という女の子を出産し、一族内で出産ラッシュであった。
ちなみにこの頃の足利幕府は混乱の極みであり、堺公方の足利義維の出現と12代将軍足利義晴が坂本に亡命政権を樹立していた為京に将軍が不在となり畿内全体が混沌としていた。
一時期権力を握っていた管領細川高国も細川家中の統制に失敗し、一族内の細川から攻撃される始末。
この様な状態なのでどんどん幕府の求心力が低下しており、公家や貴族達は安全を求めて山口に亡命する人物が相次いだ。
まだ公卿……従三位以上の者は逃げてなかったが、半家や名家といった朝廷の実務を担当する者が次々に逃亡しており、朝廷も改革を行わなければならない状態に陥っていた。
こうした中で1528年の夏に2つの事件が毛利家と大内家を襲うのであった。




