閑話 毛利家の女達
〜外伝 毛利家の女達〜
「ゆっくり房元だ。外伝を担当する事になったからよろしく頼む」
「今日は毛利家の女達について解説していくぞ」
「まず毛利家の祖となるので中心的になってくるのが毛利興元の妻マヤ姫、毛利元就の正室彩乃姫、元就の側室怜姫の3人とその娘達について話していく」
ズラッと後ろに毛利家の家系図が表示される。
「まずマヤ姫と怜姫に関しては彩乃の日記と元就の日記の両方から名前が分かっている。この時代に本名が分かっている人物は少ないから稀な例だな」
「彩乃の日記は原文が消失しているからあくまで複写された物になるが、これも1級資料として扱われている。元就の日記は原文が広島の博物館に保管されている」
「毛利家の女性を含めて名前が多く残っているのはこの2つの日記から良くわかり、人となりについてもわかってくるんだが、毛利家が藁を使った紙を生産していたことで筆まめの人物が多く、多くの日記が残っているのも毛利家の人となりがわかる資料になっている……それを踏まえて聞いて欲しい」
〜毛利の三母〜
「まず全員複数人の娘達を産んでおり、マヤ姫が3人、怜姫が■人、彩乃姫が■人と多くの娘が産まれている」
「マヤ姫の3人の姫の名前は鶴姫、亀姫、松姫だ」
「マヤ姫の娘の特徴として活発な女性が多かったと記載から読み取れる。本人は杉家の姫として高い教養があり、毛利家に最初に色々な大内文化を取り入れた人物だ」
「大内から商人を引っ張ってきたりして初期の毛利家を支え、元就とも仲が良好で杉家に戻ることも、再婚することも無く毛利家にとどまり続け、吉田郡山城城内に部屋を与えられて彩乃姫や怜姫、他毛利家の子供達の教育に携わった」
「次に怜姫……怜姫は吉川家の姫で、吉川家と毛利家が敵対した時にも元就に妊娠していたので凄い肝っ玉の女性と言われているが、日記からも実家に自身の子供を送り込んで乗っ取る気満々だったらしいので、今の時代では考えられない価値観を持っていたのが読み取れる」
「最後に彩乃姫は神通力の話が凄まじ過ぎて色々なゲームに元就とセットで登場することがあったが、渾名が戦国のビッグマザーや突然変異扱い……まぁ彩乃姫は1人で1本動画が作れるから後ほど……」
〜マヤ姫の娘達〜
「まず鶴姫は1513年産まれで産まれた当初は房元との婚約が決まっていた。これは元就が次男で宗家筋はマヤ姫の方にあった事、マヤ姫の実家が大内重臣の杉家であった事が挙げられる」
「ただ結局鶴姫は房元とは結婚せずにその弟の盛就と結婚することになる」
「これは房元の嫁に大内義興の次女の梓姫が嫁ぐことが決まり、スライドした結果だな」
「盛就と鶴姫は従兄妹同士の関係だったが、関係は良好……というより房元の愚痴で盛り上がったとか、鶴姫が作った茶碗蒸しが美味しいとかの日常がよく盛就の日記に書かれていた。兄の愚痴で盛り上がるなと思うのは私だけだろうか……」
「マヤ姫は大人しい人物だったが、鶴姫は快活聡明な人物で弓の達人でもあった。的よりも小さなみかんを射抜くエピソードが残っている。子供も男女5人ずつの10人を産んで早世する子も無く長寿の子供が多かった。平均年齢75歳だから戦国時代だと凄い話だ」
「まあこれは彩乃姫の血が入ると凄いことになるんだが……な」
「次に亀姫は1514年産まれで1530年に竹原小早川家当主小早川興景と婚姻関係になるのだが、元々身体の弱かった小早川興景は結婚時12歳(数え年)ながら病弱で、1531年に行われた大内北九州再討伐戦において初陣の最中に病没」
「子供も居なかった為に毛利家から四男の毛利鳥光が竹原小早川の家臣達から推挙があり、養子入りし、竹原小早川家を継承。その際に亀姫は鳥光と再婚し、夫婦生活を送ることになる」
「7人目の子供を産んだ時に産後の肥立ちが悪く、そのまま亡くなってしまうが、旦那である鳥光との関係は良好であったとされている」
「三女の松姫は1516年産まれでこちらも1530年に安芸守護代蔵田房信の息子蔵田隆信と婚姻関係になり、夫婦間で3人の子供を授かる」
「毛利家を出ているので資料が少ないが、1565年までは松姫は生きていた事が確定しているが、この頃に戒名が贈られている為にこの頃に亡くなったとされている」
〜怜姫の娘達〜
「怜姫は小春姫、継姫、煌姫、■■■■がおり、まずは小春姫から」
「小春姫は1514年産まれ、1532年に三吉家に嫁ぎ、三吉家と毛利家の婚姻関係を結ぶ架け橋となる」
「継姫は1517年産まれで当初江田家と婚姻関係を結ぶ予定であったが、江田家が再び尼子に寝返った為に話はなくなり、家臣の渡辺通と結婚する」
「継姫は家臣の渡辺家に嫁いだ為に親達と距離が近く、よく子供を連れて吉田郡山城に登城した記録があり、良好な関係を続けていたとされる」
「煌姫は吉川家に嫁ぐことになり、兄である吉川興経と結婚し、再び吉川主流の血を吉川に戻すことになる。母の怜姫よりも彩乃姫によくなつき、彩乃姫から教えを受けて煌姫が考案した吉川の特産品が蜂蜜酒。吉川の山の湯と共に有名になるのだった」
〜彩乃姫の娘達〜
「彩乃姫は戦国時代最多の2■人の子供を産み、その全ての子供が60歳以上生きる健康かつ長寿で毛利家を支えたブレイクスルー的存在である」
「彩乃姫の息子達は別の機会に紹介するが、娘で一番有名なのは長女の愛姫であり、愛称は乳大(乳デカの意味)である」
「背が高く(180センチ以上)で馬鹿デカい乳を持っていた為に嫁のなり手が居なかったのだが、房元の嫡男毛利義元が叔母と甥の関係であったが、家族の反対を押し切って結婚し、愛姫を溺愛していた小早川鳥光と殴り合いの喧嘩が起ったというエピソードがある」
「ただ母親としての愛姫は彩乃姫と同じく優れており7男12女の子供を産むことになり、彩乃姫と愛姫2人で40人以上の子供を増やし、近隣勢力を毛利家の血縁ネットワークを広げる手助けを行った」
「そのため安芸、石見、備後、備中、伊予、土佐では一時主要国衆の殆どが毛利家の血縁関係と、東北で同じ事をやった伊達家の様な広大な血縁ネットワークを構築し、毛利家を大きく飛躍させる原動力となるのだった」
「ちなみに愛姫は戦国時代の最高齢出産記録である50歳での出産も行っており当時としては異常ともいえる高齢出産であったが、愛姫は多くの書状に若々しいと書かれており、50歳で出産してもピンピンしていたし、自身の母乳でちゃんと産まれた子供を育てるだけでなく、毛利家の多くの家臣達の乳母を務めることも行った」
「義元の嫡男文元は母親が沢山の家臣の乳母をやるという普通ではあり得ない行為のおかげで乳兄弟が沢山おり、愛姫の乳で育った子は皆賢く健康で、毛利家をよく支えることになる」
「以上が毛利家で有名な姫達だな。最後の彩乃の息子、娘達は何故か戦国時代にあるはずの無い写真が残されており、その写真を現代視点から観たら愛姫はブスではなく、グラビアアイドルの様な美しい女性だった事が伺える……まぁ当時の価値観ってやつだ」
「まぁ彩乃姫の娘達は皆胸や背丈がデカくなる傾向があり、男性陣は全員180センチを超えていたとされ、娘達も巨乳でデブ扱いされることが多かった為に侍女から陰口でデブと言われ傷ついたと愛姫が日記を残していたりする」
「今後も外伝で毛利家の子供達や家臣について解説していくからよろしくな」
「それじゃあ次回もゆっくりしていってね!」




