1523年 1524年 大内尼子停戦 元就の外交と青田買い
大内義興の出雲侵攻は順調であったが、新将軍足利義晴がこれ以上大内を巨大化させるわけには行かないのと、尼子を完全に潰した場合中国地方で大内家に対抗する勢力が無くなるのを嫌って無理矢理停戦命令を発布。
大内義興的には幕府の命令を無視しても良かったが、幕府から大量の守護職を与えられている手前聞いておいた方が得であること、北九州情勢が不安定になっていること等を理由に2年に及ぶ出雲遠征を終了し、石見と安芸の大内支配を盤石な物にする。
大内義興が撤退しても尼子経久は山名家や庄家による出雲、伯耆侵攻を防がなければならず、出雲統治も大内義興が資金をばら撒いたことで大内に内通している国衆が続出し、今までのような統治も不可能とだいぶ厳しい状態に追い込まれた。
新将軍足利義晴はこの裁定に満足し、細川高国を管領として補助を受けながら国家運営をしていくことになるが、大内義興には6カ国の守護(筑前、豊前、周防、長門、石見、安芸の6カ国)を任命し、大内義興は北九州動乱に兵力を送り込む事になるのだった。
この北九州動乱鎮圧に安芸国守護代になった蔵田房信も召集され、毛利家には尼子から安芸国を守るように命令され、他の安芸国衆の様に北九州動乱に兵の動員は見送られるのであった。
そして5年ぶりに吉田郡山城に人質だった房元と盛就も帰国が許され、元就は宰相職から毛利家相談役に下がり、毛利家の当主を房元に一本化することに成功する。
「まずは家臣達の再度の忠誠を誓う起請文を書いてもらう。そして盛就には松尾城に入り石見方面や対尼子の警戒を行ってもらう」
「わかりました兄上」
まだ数え年でも14歳、実年齢だと13歳の房元であるが、強力なカリスマ性を発揮して主要家臣468名に起請文を作成し、当主に忠誠を誓うことを約束させると、元就が行っていた常備軍計画を更に細分化。
吉田郡山城に常備兵5000、銀山城の相合元綱に常備兵3000、そして松尾城に常備兵2000を入れる計画に修正し、他の城の常備兵資金として本家から各城に予算を投入する形で基本毛利家の直轄地とし、あくまで城代であるという立場をとらせた。
弟の盛就、叔父の相合元綱も了承し、一族衆は領地ではなく銭による支払いが明文化された。
旧武田家家臣等からは不満が出たものの、土地よりも明らかに高い俸給を支払うことで黙らせ、家臣と土地の分離を推し進めた。
勿論家臣達に対しての飴も忘れない。
宍戸家と共同牧場で育てられている大型の馬や大内より取り寄せた太刀等を下賜してとにかく物品や馬など土地以外の物で忠誠を誓わせた。
更に外貨基本方針として房元は
「椎茸、蜂蜜、米油、生糸、塩を主要戦略物資とし、副財源として加工食品、ろうそく、和紙、焼酎を当てる。後々瀬戸内海にてアワビ養殖を行い、これも外貨獲得手段とする!」
と経済的な戦略物資と準戦略物資を分け、資金投入の割合を決定。
大内との取引量を更に増加させることを決定した。
1524年となり、相談役になって元就のやる事が減ったかと言うとそうでもなく、家中の取りまとめを房元がやってくれるので外交で生き生きと活動していた。
「正史ではできなかった隠居生活じゃ! 出来る息子達が居ると楽で仕方がないのぉ!」
と大喜びし、彩乃と怜をまた孕ませつつ、自由に動き回った。
まず目をつけたのは三吉と江田家である。
備後の国衆かつ尼子が全方位から攻められるようになって従属先を大内に切り替えたが、その大内が撤退したために従属先を失っていた。
元就はそこに付け込んで毛利家に従属しないかと交渉を行い、両家の息子達に怜の娘である小春姫と継姫を嫁がせる婚姻政策でどうかと交渉を行った。
比叡尾の戦いや尼子撃退などで元就の名前は尼子派だった備後国衆からは恐れられており、従属では無く臣従を両家は選択したかったが、大内家にこれ以上の拡張は警戒されるため、段階を踏んでからにしようと交渉し、従属させる事に成功する。
従属の褒美として戦略物資になる現代米と薩摩芋を下賜し、現代米の農法もある程度教えるに至る。
もう既に周辺では毛利家は毎年大豊作が続いている噂を耳にしており、尼子が種籾を盗んだりもしていたのだが、ケチな尼子は家臣に教えないで直轄地だけに現代米を広めた為、信用度の低い国衆には伝わってなかった。
農法も教えた事でその年の収穫量は4倍に跳ね上がり、三吉家と江田家はますます毛利家に忠誠を誓うことになる。
そして宍戸家と三吉家の国境紛争を双方納得のいく形で終結させ、宍戸家は家畜や馬産地として生きて行くことを決め、宍戸家は嫡男の宍戸元家が1518年に病死し、嫡孫の海賊は一時備後の山内家が母方の実家だったので預けられていたか、1523年に宍戸領に戻り、祖父の宍戸元源と家臣達の教育を受けて真っ直ぐな少年に育っていた。
元就は宍戸元源からどうか毛利家と婚姻を結びたいと渇望されており、元就はついこの前に産まれたばかりの愛姫を嫁がせる事に決め、正妻の娘を送ることで三吉や江田よりも宍戸を優遇していることをアピールした。
こうして親毛利国衆を東に固め、次に北に目を向ける。
石見の有力国人衆である吉見家を訪れた。
「いやぁ元就殿には一度会っておきたかったのですよ」
「吉川を毛利が吸収したことで領地が近くなりましたので挨拶に遅れてしまい申し訳ないのじゃ」
「いやいや、元就殿も銀山攻めで負傷したと聞いておりましたので復帰できて良かったです」
吉見家は昔から大内に属していた国衆なのだが、陶興房の父親で大内の救臣(誤字に非ず)陶弘護を誅殺したのが元就が面会している吉見頼興の兄であり、本来なら吉見家は族滅してもおかしくなかったが、大内家の政治的判断で生かされ、以後は大内家の合戦に率先して転戦し、信頼を勝ち取り、石見の有力国衆の地位にまで返り咲いた苦労の人……それが吉見頼興であった。
「実は道中興源寺に立ち寄ったのですが、たいそう利発な若い小坊主が居まして、聞くところによると頼興殿の息子さんと聞いたのであそこまで才のある子を僧にしておくのは勿体ないと思ったのじゃが、ワシが育てる故に還俗させて家臣に加えさせてはもらえないかのぉ」
「儂の息子がそれほど評価されているとは……四郎(長男が早世してしまったので五男であるが四郎と言う名前で出家させられていた)は五男故に家を継ぐことも無いでしょうからどうぞ連れて行ってくだされ」
「ありがたいのじゃ!」
その後吉見家と毛利家の連携の事や尼子勢が攻めてきた場合の石見の防衛についてを話し合い、吉見家と友好を深めるのであった。
元就が青田買いした寺の小坊主は元就の未来知識で知っていた大内義隆最後の忠臣吉見正頼であり、もし未来が変わらず大寧寺の変が起こった場合、キーマンになるし、毛利で教育を行い、将来的な吉見家家督を継承して当主になる資質を備えていた。
しかも正史の元就が毛利十八将の1人に挙げるので将としての資質もバッチリである。
今恩を売り込んで石見方面に影響力を拡大する時の為の駒を増やす意味でも元就は四郎をスカウトするのであった。
四郎は数え年で11歳であり、元就が元服させて吉見正頼を史実通り名乗らせて以後元就の小姓として一緒に各地を巡ることになるのだった。




