閑話 未来から見た毛利家安芸小守護代までの解説
〜毛利元就解説 第三回安芸国の小守護代〜
「こんにちはゆっくり彩乃です」
「ゆっくり元就なんだぜ」
「前回は有田中井手の戦いで安芸武田家に大ダメージを与えたところだったわね」
「そうなんだぜ。今回は1522年までの出来事を紹介していくんだぜ」
「よろしく頼むわ」
「まず毛利元就の対抗勢力はすべて親尼子派の国衆ばっかりだったぜ。有田中井手の戦いから直ぐに尼子家の命令を受けた備後の三吉家が毛利領内に侵攻したものの元就が考案した啄木鳥戦術によって三吉家と援軍の尼子家は多大な被害を受けることになるぜ」
「啄木鳥戦術って何?」
「対象の別地点を攻撃することにより本隊を移動させてその移動した部隊を自身の有利な地形に誘い込んで攻撃する戦術だせ。元就は三吉の本城比叡尾城に裏道を通って浸透し、攻撃を開始するぜ。更に攻めていることが目立つように篝火を幾つも焚いて城が燃えているように見せかけたんだぜ。これにより毛利領を攻めていた三吉の部隊は慌てて撤退するんだけど、それを元就は待ち伏せを行い、後から追いついた相合元綱率いる別働隊も攻撃に加わることで包囲をすることに成功し、1500から2000名で攻めていた三吉と尼子の軍勢は700名近くの死者を出して何とか比叡尾城に逃げ込んだんだぜ」
「元就の作戦勝ちね」
「元就の知略の高さを表すエピソードだぜ。だいたいこういう話は創作だったり後付のエピソードなんだが、元就の日記と三吉家の残した書類にこのことが書かれていた為、事実であったと確定しているぜ」
「どんな事を書かれていたの?」
「三吉家の残した比叡尾記録によると」
『元就率いる軍勢により比叡尾が落とされたと勘違いした我々は元就の待ち伏せする陣に突っ込んでしまい、毛利の巨漢達に兵達をなぎ倒され、家臣の小森某と皐月某が身を挺して血路を開き、何とか比叡尾城内に逃げ込む事が出来た。我々三吉は大きな出血を伴い、尼子に引き続き頼っていいかと疑問を抱くようになる』
「と、書かれていたぜ」
「凄い鮮明に書かれていたのね」
「武田、三吉の相次ぐ敗戦により尼子は毛利をそう簡単に倒せる敵では無いと判断して混乱状態にある備中に侵攻することになったぜ」
「その間に元就はどうしていたのかしら」
「常備軍の拡張と弟の相合元綱の居城である松尾城の改修工事をしていたぜ。あとは尼子の手が回っていた坂広秀と渡辺勝を誅殺したんだが、渡辺勝を誅殺の実行犯が初陣であった毛利賢太郎と毛利小次郎の2人が討ち取ったと記録に残っているんだが、正直事実か怪しく、実際に出陣して城攻めに参加していたのは確認出来るが、元就と彩乃の日記に無断出陣した2人をきつく叱ったという記録があるから初陣ではあったが、この時賢太郎が7歳! 小次郎が6歳だったので毛利一の武芸達者と呼ばれていた渡辺勝を討ち取るのは難しいと思うぜ」
「それで本当に討ち取っていたらやばいわね」
「まぁ2人の後の武勇を考えれば完全に否定しきれないのが恐ろしいところだぜ」
「そうなの?」
「次回に毛利家が安芸国一番の勢力になった時の家臣や息子達の評価を解説するから待っていて欲しいんだぜ」
「わかったわ」
「誅殺事件の翌年、京に滞在していた大内義興が山口に帰国し、パワーバランスが尼子から大内に傾くんだぜ。1519年には安芸の尼子派国衆であった阿曽沼と野間家が安芸の大内派国衆により討伐されているぜ」
「そうなると安芸国に残る尼子勢力は武田家だけかしら?」
「いや、吉川と厳島神主家がまだ残っていたぜ」
「吉川って元就の側室の実家よね?」
「怜姫の実家だぜ。実家と敵対していた頃の怜姫の心情は分からないが、彩乃姫の日記に度々登場しているし、1520年には3人目の女の子が産まれていたから夫婦仲は良好だったと思われるぜ」
「そう言えば長男の賢太郎達はこの頃どうしていたの?」
「実は1518年から大内の人質として山口で生活していたんだぜ」
「毛利家の当主が人質ってだいぶ大胆な事をしたわね」
「家臣の粛清をしたことで元就に意見できる家臣が少なくなり、毛利家の集権化が進んだと言う研究をしている学者先生が居るように、元就は大内義興時代はとにかく大内家に全ベットしているのが伝わるぜ……大内義興の屋敷で賢太郎と小次郎は元服し、毛利房元と毛利盛就の名に改めているぜ……そしてそこで2人は運命的な出会いをすることになるぜ」
「運命的?」
「後の大内義隆こと亀童丸との出会いだぜ」
「当主の息子と出会うのは普通なんじゃ?」
「房元と盛就は人質でありながら大内義興に亀童丸の学友になるように言われ、亀童丸と同等の教育を受けることが出来たぜ」
「それは凄いことなの?」
「当時大内は西の京と言われるくらい山口の町は栄え、京から逃げてきた貴族を保護し、権威のある寺社も大量に有ったんだぜ。そんな貴族や偉い坊さん、西国覇者の大内を支える家臣達から直接帝王学を学んだ2人の視野は安芸の一国人衆の当主としては広すぎる程の器となるぜ」
「それは凄いわね」
「凄いだけじゃないぜ、2人は大内の内部で確かな伝手を広げ、武士の礼儀作法だけじゃなく、貴族の礼儀作法や和歌、音楽、漢文、書道に精通し、元就の息子達だけで作った和歌集……毛利四季折々の和歌の技術を他の兄弟に広めたり、毛利仮名文字全集の46文字の見本を書き残したりと大内の文化を毛利に広める一存を担ったりしているぜ」
「毛利家に留まる器じゃなかったのね」
「大内義隆は元服後にこんな言葉を残しているぜ」
『大内は優れた家臣を多く持つが両腕を冷泉隆豊と陶隆房を両足を毛利房元と毛利盛就が支えてくれる。4人がいる間は大内は安泰であろう』
「という大内義隆の名指しで4人の家臣の名前を挙げて、これを大内四天王と呼んでいるが、大内直臣だけの場合内藤興盛と弘中隆包の2人が入る感じだぜ。ただそれだけ大内義隆は毛利兄弟を信頼していたし、大内義隆の海外進出政策に多大な影響を与えたと言われているぜ」
「でもこうなると毛利家は大内の家臣に組み込まれそうね」
「……」
「ゆっくり元就のその間は何かしら」
「大内義隆時代に確かに大内家は天下を取ることが出来るぜ。ただそれが大内家の悲劇に繋がるんだが……それは未来の話だから今はよそう」
「え? え? こんな盤石な大内がどうなるの?」
「話を戻して、息子達が人質に送られている間に毛利家では更に大事件が起こるぜ……1521年、尼子軍1万5000が突如毛利領に侵攻したぜ」
「遂に尼子が本気で安芸国制圧するために来たのね」
「石見方面の毛利家の防衛線は突破されて松尾城に尼子が殺到し、尼子は3日で松尾城を陥落させるんだけど、元就率いる毛利本軍と松尾城兵は決死の連携で敵中突破に成功し、吉田郡山城に逃げることに成功するぜ。この松尾城の戦いで元就は火縄銃を戦国時代で初めて合戦に投入するぜ」
「火縄銃ってこの時代にはあったのね」
「火縄銃が普及するのは1550年頃、火縄銃が海外から流れてきたのが1543年の種子島に南蛮船漂着なのでどういう経路で火縄銃が毛利家に流れてきたかは不明なんだぜ。ただ恐らく勘合貿易をしていた大内家から明で使われていた鳥銃が流れて来た説が有力だぜ」
「毛利家は以後火縄銃技術を秘匿しながら合戦に使用していくことになるぜ」
「吉田郡山城に籠もった元就達毛利軍は3ヶ月の籠城戦を耐え抜き、尼子が占領する毛利領内で一揆を誘発し、尼子の大軍を逆に兵糧攻めにするんだぜ。そして尼子が撤退瞬間に大規模な追撃戦を行い、6000近くの首印をあげる事に成功し、毛利家単独で4カ国を有して8カ国に影響のあった尼子に大打撃を与え、このことは西日本に激震を与えたんだぜ」
「尼子は急速に力を失ったんじゃないの?」
「ゆっくり彩乃の言うように尼子はこの後滅亡寸前まで大内義興の手により追い込まれるが、謀聖尼子経久は伊達では無く、不死鳥の様に勢力の巻き返しを行う事になるぜ」
「え、この大敗から復活するの!?」
「尼子の影響力が消失した安芸国では尼子派だった勢力は次々に滅亡し、毛利家は吉川領と武田領の大半を吸収して安芸最大の勢力に成長するんだぜ、そして毛利房元は安芸小守護代に任命され、安芸国でナンバー3の地位を確立。以後毛利家が安芸国の主導権を握っていくことになるんだぜ」
「そろそろ時間ね」
「そうなんだぜ、ではまた次回」
「「ゆっくりしていってね!!」」




