1522年 毛利軍1万人計画 生糸生産本格化
元就が吉田郡山城の屋敷に引きこもり、その間に元就は家臣団に役職ごとに役割を与えていた。
まず元就は自分の権限を最大限活用するために宰相と言う役職を作り、幼少や当主が何らかの理由で本領の行政が出来ない時に当主と同等の権限を持つとし、ここに元就が就任。
次に元就が金の流れに敏感になったことや井上庶流の権限が日に日に上がっていること、吉田郡山城の戦いに参加できなかった井上衆当主の井上元兼を元就は監視していたが、特に不正も無くしっかり働いていることや家臣の権限を大幅に縮小していた事で警戒を解き、五大老と言う役割を作り、そこに宛てた。
五大老は通常の家老よりも上の権限が与えられており、元就は将来的に親族衆で固めるつもりで居たが、執権である志道広良、桂家当主の桂元澄、福原家当主福原広俊、吉川家を継承した吉川興経の5名……吉川興経は今後を見越しての配置であるので実質4名が毛利家において大きな権限を持つことになる。
そしてその下の家老には中村元明、粟屋元秀(粟屋元忠の父親)、赤川就秀、その弟の赤川元保、飯田元親、国司有相、井上元吉、井上就在と言った井上家の庶流でも有能な者や毛利房元の当主就任を積極的に進めた者を家老職に固めた。
そして家老を衆議院とするなら参議院や貴族院的な役割を担う一門衆で、一門筆頭に相合元綱を、時点に下半身不全の為寺に入れられていたが、一門が不足している毛利家を支えるために無理を言って還俗してもらった元就の弟の北就勝、小次郎こと毛利盛就が今のところ毛利家の元服済みで一門と言える人物達である。
吉川興経も一門であるが、一門の仕事も兼任させるのはあまりにも酷だし、吉川家の当主であるので、除外とされた。
そして元就は領土が拡大した為、円滑に行政が行えるようにと奉行衆の頭となるべき五奉行を整備。
元就を幼少期から支えてくれていた面々を配置し、信頼厚い児玉就忠に井上俊久、井上俊秀、粟屋元忠、桂元忠の5名とした。
五奉行制度は元就の次世代で誕生する制度であるが、元就が開設した学び舎からどんどん優秀な奉行が輩出されたり、見込みのある兵が出世して奉行となっているため、手足が先に育ったので頭を配置したのだが、元就と志道広良のスパルタ教育を受けていた者達だけに家臣評価が基本辛口の元就も一定の評価をしていた。
五奉行の5人はそれぞれ元就から井上の2人は
『将としての器量に欠けるが政務においては文句無し』
粟屋元忠は
『五奉行の中で唯一軍権を預けられる者。文武において両道』
児玉就忠は史実では才覚無い正直者と言われていたが
『戦なければ1国の政務を預けられる』
桂元忠は史実では更に酷く無力者とバッサリ言われていたが
『求める基準は超えている。ただ我を通す勇気無し』
と言われ、元就が自身に設けている高い基準を超えている数少ない人物達であった。
ちなみにこの元就がベタ褒めした人物は志道広良の
『知勇を備えた名宰相』
と自身の妻の彩乃の
『神通力含めて大母たりうる器』
と、称していた。
ここで家臣の役割や階級をしっかりしておく事で毛利家の軍事行動における軍権の順位をしっかりしたことに繋がる。
高田郡、山県郡、沼田郡、佐伯郡の東部と大領を手に入れた事で安芸から石見に領土が広がる国人衆としては頭1つ抜けた存在となった。
石見、安芸、備後の3方面に軍を展開させなければならない可能性もあり、広がった領土から動員兵力も毛利家単独で15万石分……1万石で500人の兵を戦国期は動員するので大内家からは7500名の動員兵力を元に軍役が課せられる。
元就的には多くの領土を直轄化したため常備兵を7500名、宍戸、吉川、他毛利家臣の兵力を合算して1万の軍……ゆくゆくは常備兵だけで1万の軍を作る計画を練っており、その兵站を支えるためには人件費だけでも9万貫、装備や食費、訓練費用を加味すると7500の常備兵だけでも15万貫は消費してしまう。
一応勘合貿易ができれば90万貫近く毛利家に入ってくるが、勘合貿易も大内家が毎年出来るように交渉中であるが、現状2年に1度なので45万貫プラス諸収入の5万貫の50万貫でやりくりするしかない。
毛利家は50万貫中15万貫……約30%を軍事費として使っていることになる。
現代だと日本のGDPから見た軍事費率が約1.5%前後、北朝鮮が15%とされているので30%は超軍事国家の比率であるが、他の国に比べると島津とかは恐らく50%を超える比率だし、武田信玄時代の武田や上杉謙信時代の上杉家も国力の半分以上を軍事費に充てていたと思われる。(武田は蛮族経済で国を回さないと破産するし、島津と上杉は金はあっても米が取れないので他所から奪うために軍事力に回していた)
大内家や織田家は馬鹿みたいな経済力があるので例外側である。
なので毛利家の30%も戦国時代だとスタンダードである。
他所と違うのは残った予算のうち30%は行政力の為の予算(街道整備や橋の敷設等のインフラ系)であり、残り20%が技術投資、20%が備蓄という感じであった。
こうして毛利経済を考えるといかに毛利家が大内家の経済力に依存しているかがよくわかる。
とにかく元就は将来の毛利常備兵1万人計画の為に更なる産業育成を行うのであった。
吉川や宍戸にも広めているが、養蚕をいち早く取り入れた毛利家では絹の生産が始まっていた。
吉田郡山城合戦を見越して生産拠点を毛利領南部に集中していたのが良かった。
厳密に言うと絹ではなく生糸であるが、生糸の国内生産は戦国時代の人々は出来ない……というより養蚕の技術が無かった為に大陸から大内義隆時代に職人を札束ビンタで引き抜いて生産を始めたが、大寧寺の変で養蚕技術が失伝、ただ生糸を絹織物にする技術は大内家から京に逃げて西陣織として発展するため、原材料の生糸を大陸から南蛮貿易で輸入する羽目になり、南蛮人に暴利で買うしか無い貴重品であった。
元就が病床に居るということで相合元綱が代理で石見で陣を構え、政務を行っている大内義興の所に行き、生糸の生産が出来るようになったと伝えると、次回の貿易で必ず絹織物の技術を大陸から輸入すると意気込んでいた。
ちなみに生産された生糸は大内家からの許可を受けて堺や博多に流れ、普通に銭になったと言っておく。
もっとも大内家が絹織物の技術を輸入すれば、大内家が生糸の消費地になるため毛利家としては早く生糸の消費をするように願うのだった。




