1519年 阿曽沼·野間掃討戦
息子達が亀童丸と団結していることを知らない元就は吉田郡山城に帰還後に阿曽沼と野間討伐の準備を本格化。
年が明けて早々に元就自ら1500の精鋭兵を率いて鏡山城に入城し、竹原小早川家、平賀家、天野家に蔵田房信の鏡山城兵も合わせると6000の兵となっていた。
「阿曽沼、野間は平賀家と竹原小早川家の遺恨のあった土地故に攻め取った場合その2家に大半の土地は分割、残りの土地は天野家が取ってくだされ」
元就の言葉に諸将はそれでは毛利が手柄を立てても損をするのでは無いかと心配されるが、元就は
「なに、武田を滅ぼした時に所領が増えれば良いと思っておる。それに今は尼子の影響力を削るが第一ぞ」
この場に集まった国人衆の当主達は大内義興に臣従しているが、尼子からの調略が家臣達に伸びているのは重々承知しており、竹原小早川家と平賀家はこの一戦で家中の主導権を取り戻そうとしていた。
天野家も同様であり、一部家臣は堂々と出陣拒否をしている有様であり、問題はより深刻かもしれない。
「作戦は阿曽沼は毛利と天野が担い、野間は蔵田房信殿に従う形でお願いしまする。なるべく早く阿曽沼を落とし、野間攻めに合流する故に無茶はしないようにお願いしまする」
と若輩の元就がこの場を仕切っていたが、蔵田房信も異議を唱えずに作戦を聞いていた。
それだけここ最近の毛利の武勇は安芸国内に響き渡っていたのである。
「阿曽沼は既に手筈が整っております。1日で落としてみせましょう」
「ほほう、元就殿の手腕とくと見させてもらいますぞ」
この中で最年長の竹原小早川家の小早川弘平が声を上げる。
この小早川弘平はこの年既に62歳といつ亡くなってもおかしくない高齢であったが、正月明けに待望の嫡男が産まれた元気爺である。
本家である沼田小早川家との融和を第一にしている人物であり、野間はその融和策を引っ掻き回した過去があり、遺恨があった。
野間の介入が無ければ片付いていた問題だったが故に、ここで竹原小早川ここにありというのを見せる必要があったのである。
逆に平賀家当主の平賀弘保は嫡男も元就の1つ下で武将としての力量も良く、この戦いで嫡男平賀興貞の武功を上げさせて家督継承をスムーズにしたい狙いがあった。
それぞれの思惑があったが、元就の軍を2つに分ける作戦が蔵田房信により決定され、毛利·天野連合軍2000が阿曽沼一族が籠る鳥籠山城に迫り、城の間近の蓮華寺に陣を構えた。
「元就殿、阿曽沼の籠る鳥籠山城は200年も阿曽沼一族を守り抜いてきた堅城でありますがいかが落としますか」
「いや、勝敗は決しておりまする」
元就は法螺貝を次々に吹き始めると、鳥籠山城から煙が上がり始めた。
「鳥籠山城から煙が」
「阿曽沼の家臣の一部を調略しておりました。内応の手筈は整っていたのであとは城門が開くのを待つのみ」
鳥籠山城の門前まで移動すると城門が開いており、中で合戦が続いていた。
「一気に三の丸、二の丸を制圧するのじゃ!」
元就が兵達に号令すると一気に城に兵達が雪崩込み、制圧していくのであった。
天野軍も一気に攻め入り、一刻(2時間)もしないで残るは本丸を残すのみであり、裏切った家臣達は毛利軍の突入後に大半が粛清されていたが、勝負にならないと感じた当主阿曽沼弘秀は子供達と一緒に自刃し、安芸国で200年以上勢力を保持していた阿曽沼家は1日もせずに滅亡。
生き残った阿曽沼の反乱側の家臣を吸収し、残党を掃討。
鳥籠山城の城内を整備し、対武田家の拠点として軍の一部を残し、直ぐに野間氏の籠る矢野城に向かった。
短時間で毛利·天野連合軍が鳥籠山城を本当に落としたと聞いて小早川弘平はこのままでは武功が毛利と天野に全て持っていかれると感じ、元就が城の力攻めは辞めておけと軍議で忠告したのにも関わらす小早川弘平は平賀や蔵田を出し抜いて矢野城の力攻めを開始してしまう。
軍功を焦るあまり、前線で兵を鼓舞していた小早川弘平の胸に城内から放たれた矢が突き刺さり、落馬。
傾斜した坂道を駆けていたこともあり、落馬後に坂道を転げ、渓谷に小早川弘平は落下してしまい、誰にも討ち取られる事は無かったが、亡骸を供養することもできない死に様となってしまう。
大将の死に動揺した竹原小早川家は家老の者が急遽指揮を取り撤退することに成功するが、絶対的な当主であった小早川弘平の死により血縁関係のあった若武者の小早川公平が当主代行を宣言。
蔵田房信もこれを承認して抜け駆けの事は不問とした。
翌日には安芸国の大内水軍が到着し野間水軍を蹴散らし、包囲網を狭め、毛利·天野連合軍も野間包囲に合流した。
「野間の兵は多く見積もっても1000、こちらは5000、兵糧攻めですかな?」
「1晩時間をくれましたら仕込みをしますのじゃが……」
元就がそう言うと蔵田房信はそれを即座に了承し、元就は闇夜に紛れて忍び衆に命令して搦手の城壁の破壊工作を行わせた。
老朽化していた土壁は爆弾により盛大に破壊され、忍び衆は混乱した隙に城内に侵入し、兵の詰所に焙烙玉を投げ入れた。
小早川弘平を戦死させ、士気を上げるために飯をたらふく食べさせていたのが災いし、直ぐに動くことができずに城内は大混乱に陥り、同士討ちが多発してしまう。
早朝、城壁が壊れた搦手から平賀軍が侵入し、二の丸を制圧。
毛利·天野軍も二の丸が突破されて混乱の極みとなった三の丸に突入し、三の丸を制圧。
本丸には平賀軍から次々に火矢が放たれ、炎上し、逃げ出す野間一族の者を過去の遺恨もあり次々に討ち取っていき、当主野間興勝は自刃し矢野城も落城となった。
残っていた野間家の砦も次々に陥落し、1週間で阿曽沼、野間は滅亡。
戦前の約束通りの領土配分となったが、竹原小早川家……いや本家の沼田小早川家を含めてダメージが大きかった。
小早川弘平は他所からの影響を嫌い、両小早川家を統一することで確固たる勢力にしようと画策していたため独立志向が強かったが、小早川を先導していた人物の死により沼田小早川家の当主はまだ10歳にもならぬ幼齢であるし、竹原小早川家の新当主は産まれたばかりでいつ病で亡くなってもおかしくない。
凄まじく不安定である。
そうなると水面下で話し合わされていた毛利家との縁談の話が小早川家をどうにかするには必要となり、当主代行になった小早川公平は毛利興元の遺児亀姫と生まれたばかりの四郎と婚約を急速に進め、毛利と大内の力を借りて小早川家を運営していこうと重臣達の会議で決定された。
こうなると尼子と通じていた者も力の弱まった竹原小早川家では尼子と通じたところで大内家に潰されるのが目に見えていたので活動を停止することになる。
この一件により毛利との縁が確固たる物になり、以後元就は竹原小早川への侵食を強めていくことになるのだった。
安芸国の尼子側勢力がどんどん削られるのを見て尼子経久は安芸国侵攻を遅らせて正解であったと確信し、石見方面での軍事圧力を強め、三吉の毛利領侵攻に大敗したことで備後の影響力が低下していたが、時間が経過したことで再び尼子の影響力が伸びていった。
「なるほどのぉ……毛利元就厄介な奴。実に愉快なり」
上機嫌の尼子経久の前に重臣の亀井がやって来て石見方面でも軍事行動が大内義興の帰国により石見国衆が再び大内側に傾き、戦線が膠着。
一応対大内同盟を結んでいる為に山名領への侵攻は最小限にしなければならず、各戦線で拡張が停止していると報告が行われた。
「上々、では備中を攻めるとするか」
「備中ですか?」
「備中の大物、新見氏の調略に成功した。三村の領土を攻撃しようと思うぞ」
「三村ですか……いかほどに」
「私自ら出る。出雲、伯耆の国衆に号令、一気に捻り潰す」
「は!」
事実この遠征は成功し、三村家は降伏を余儀なくされ、備中を勢力に収める事に成功する。
ただこの備中攻めに約2年間他の軍事行動が制限された為に石見、安芸における尼子側の勢力は大内家による圧力を受け続けることになるのだった。




