1518年 元服準備
尼子との小競り合いをしながらもこの頃にようやく元就親衛隊ともいえる常備兵が定員の1500名に到達し、最初期の100名時代から生き延びた精鋭50名は足軽大将かつ日常的に騎乗することが許され、末席とは言え武士身分が与えられた。
ちなみに精鋭50名と言ったが、生き延びた人員的には72名ほど居たが、残りの22名は怪我だったり性格的な問題で奉公衆として内政面で活躍していた。
次に定員500名時代の中で特に目ぼしいとも思った者達も足軽組頭や足軽小頭に抜擢され、軍隊で言う班長や小隊長という役割が与えられた。
元就的には軍事改革を行い、日本陸軍的な階級制度にしたいらしいが、とりあえず足軽→足軽組頭→足軽小頭→足軽大将という足軽の中でも階級がしっかりしていた。
他の家の足軽とは一線を画す戦闘能力と技能を持つ精鋭足軽……いや、常備兵であり、毛利家の中核戦力である。
常備兵達は全員弓や焙烙玉を扱える様に訓練されており、組頭以上は騎乗技術を身に着けていた。
現在は火縄銃の習熟訓練も行っており、更に戦力が上がる予定である。
それを支える毛利家の国力も順調に上がっており、毛利領約5万石は未来の農法と肥料により5倍……とはいかないが4倍に増加しており、20万石程度の米の収穫量に年々拡大している椎茸栽培、養蜂、米油、酒蔵等の根幹産業により10万貫まで収入が増えていた。
他にも外貨獲得にはそこまで影響出てなかったり、まだ軌道に乗っていない養鶏、養豚、養蚕、木綿、製紙産業も領内の経済の活性化には大きく役立っていた。
そのため安芸国の一部を領有しているだけの毛利家であるが、その規模に見合わない経済力を保有するまでに成長していた。
領内の公共事業として現在相合元綱が守る松尾城の防衛強化改築が進められており、コンクリートを使った山城へと変貌を遂げている途中でもあり防衛力も日に日に向上していた。
家臣の教育も進み始め、元就主導で仮名文字の統一と漢字教本の作成、領内公文における崩し字の原則禁止、アラビア数字の導入も行い、それを覚えている家臣を各領地を持つ家臣に派遣して教えることで毛利家が家臣に教えるという形を取ることで毛利家の優位性を引き上げた。
更にここで尺貫法の再厳命を行い、領内で厳格化していなかった尺貫法の統一を改めて行い、毛利家の権限を引き上げた。
元就的には分国法まで行いたかったが、尺貫法の厳格化により家臣達の不満が高まったので、これ以上の改革は進めなかった。
ただここまで改革を進められたのは反対派筆頭だった坂家と渡辺家を武力を持って粛清したのが家臣の中で効いていたからである。
更に反対覚悟で天然痘予防になる馬痘の予防接種を毛利衛生隊に行わせ、反発があったが天然痘の予防を毛利領内は広めることに成功した。
そんな改革の最中、毛利衛生隊の中核人員であった志道就広が病で倒れる事が起こったが、ペニシリンを投薬したことで改善するという事も起こっていた。
毛利家の家中では彩乃がこの年も出産し、またまた男児だったので虎丸の名前が与えられた。
9年間で7人の出産である。
まだ彩乃も21歳……まだまだ産む気満々であり、戦国時代の最多出産を狙う気である。
ちなみに記録に残っている中で同じ母親で子供が多いのは前田利家の妻のまつ殿と伊達晴宗(伊達政宗の祖父)の妻である久保姫の11人が最多であり、あと4人で更新であった。
一方外交や謀略面では、元就が行っている武田家への印象操作策が効き始めていた。
阿曽沼と野間から度々攻撃を受けていた平賀家と竹原小早川家の間で阿曽沼と野間に武田家から資金や兵糧の援助が行われていること、攻め取った領土は武田家が安堵を約束する等の事実を拡大解釈出来る情報を流したり、実際に武田家の情報を忍び衆が引っこ抜いてきて、その情報で平賀家と竹原小早川家の都合の悪いものだけを流言として流したり、武田家に寝返ろうとしている家臣の寝返りの証拠の書状を掴ませたりしながら情報を操作した。
するとどんどん武田家に対して心証が悪くなっていき、逆に毛利家からは平賀家と竹原小早川家に対して資金や兵糧の援助を開始し、結束を強める様に働きかける。
この動きは逐一蔵田房信に元就は報告しており、当事者達に悟らせない手腕を褒め称えられた。
「毛利元就殿の手腕は豪族の中でも突出しているね。それが尼子の手に渡ったら大変だ。ここは僕の息子と血縁関係になっていて損は無いね」
元就の計画通りに蔵田房信の方から血縁関係を申し出る事を言われ、兄毛利興元の遺児である松姫を嫡男と婚姻するのはどうかと提案する。
「うん、僕の息子もまだ5歳、それにマヤ姫の娘となれば杉殿との縁も深まる。流石元就殿、良く考えられておりますね」
「では」
「ええ、蔵田家としては良縁であると考えています。次に殿(大内義興)が帰国の準備に入りました。今年中には帰国するでしょう」
「では大内の軍によって安芸国制圧を」
「いや、それはできない」
この時本領である、周防や長門、他北九州の政務が長年留守にしていた影響で滞っており、それを片付ける必要があった。
「殿に早く安芸国安定化の為に軍を出すように催促しますが、武田家以外は我々で片付ける必要があるかもしれません」
「阿曽沼と野間ですか」
「ああ、2家は明確に武田家と手を結んでいることが確定(毛利元就による謀略でもあるが)した。故に討伐せねばなるまい」
「わかりました。蔵田殿、どうか毛利家をお使いください。尼子が居るので1500しか出せませぬが、全力で戦いましょうぞ」
「おお、それは頼もしい。戦上手と名高い毛利家が援軍ともなれば他の国衆の士気も上がりましょう」
こうして蔵田毛利密約と呼ばれる対阿曽沼、野間の戦略が決定し、元就は来年を目標に軍事行動の準備を始めるのであった。
蔵田房信と協議して大内義興から偏諱を受けるのは了承されたが、名前が前当主である毛利興元と同じになってしまうのでは無いかと言われ、大内義興は右腕である陶興房の房の字を当主である賢太郎に与えるはどうだという話になり、次男には長門守護代の内藤興盛の盛の字はどうだと言う話が上がった。
それで両家の繋がりが深くなるのでしたら是非ともと元就は了承し、以後蔵田房信に2人の元服を話し合うふりをして対武田、対阿曽沼、野間の戦略と謀略を進めるのであった。




