1517年 毛利兵の装備事情
「元就様、お時間がかかってしまい申し訳ありませんでした。鈴木、目的であった火縄銃の複製に成功しましたぞ!」
「なに本当か!」
「はい、試射も完了しております。こちらが複製した火縄銃になります」
約1年の歳月をかけて火縄銃の複製に成功した鍛冶屋の鈴木は真っ先に元就の所に報告をした。
複製に関わった職人は30人も居た為、約束だと300貫までであったが、元就は特別に1000貫もの褒賞を与え、職人を労っていった。
「鈴木、城下の鍛冶屋達の力では火縄銃を1丁作るのにどれぐらい時間がかかるか?」
「いえ、彩乃様が教えてくださった旋盤を使えば工程を大幅に短縮することができますので1日5丁ほど製造が可能です。ただ1丁に2貫ほどの製造費がかかりますが」
「職人への賃金も含め、5丁で12貫支払うのじゃ! 戦では大量に必要になる。金は出すから更に生産性を高めるのじゃ!」
「は!」
火縄銃の量産が始まり、初年度だけで200丁の火縄銃が吉田郡山城に納入され、常備兵達には火縄銃を使った射撃訓練や木銃を使った射撃態勢を決める訓練、火縄銃を装填したり、木銃を使って陣地移動や障害物走をする訓練を行わせていった。
兵だけでなく家臣達も火縄銃に触れさせることで、火縄銃の理解を深めさせていったが、多くの者が合戦での有効性を見出すことができなかった。
ただ火縄銃の有用性を知る元就は火縄銃の射撃間隔の欠点を解決する早合が早速作られた。
ボトルキャップになっている竹製の入れ物の中に紙の中に火薬と弾が詰められた紙製薬莢と火縄が入れられており(このセットを早合という)がだいたい5発から8発入れられており、竹製の入れ物に入れるのは濡れるのを防ぐためでもあった。
紙製薬莢と火縄には米油を抽出する時に出る蝋成分を使い、コーティングすることで更に水分から強くする。
射撃する時は火縄銃を立てて銃に紙製薬莢の中身を入れて棒で押し込み、点火する場所(火皿)にも少量の火薬を入れて火蓋を一度閉じる。
火縄に火を付けて発射態勢を取り、火蓋を開ける。
引き金を引くと火縄が火皿に落ち、着火して火皿の火薬と中の火薬が爆発。
その爆発の影響で弾丸が飛んでいく仕組みである。
元就も火縄銃を射撃してみて早合を使えば1発30秒、慣れれば20秒で発射でき、殺傷力も十分であると判断した。
元就は生産と並行して馬上でも使える火縄銃の設計図を渡し、射程がある程度短くなっても良いから取り回しの出来る馬上筒の開発を依頼。
備蓄分の火薬以外を訓練用と割り切り、兵や家臣達に紙に黒く塗った的を使い、射撃訓練を行うのであった。
火薬の使用量が増加したことを受けて、私は村の代表を集めて養蚕の方法を教えて、絹と培養法による硝石の製造を行わせることにした。
絹は日ノ本で高い需要があるため、養蚕で得られる繭を毛利家が買い取り、それを絹にし、糸や布にする工場の建設に着手した。
勿論蒸気機関による工場ではなく、家内制手工業の延長線であるが、多くのマンパワーにより絹を生産していく事になるのだった。
なので、蚕の餌となる桑の木が村々に大量に植えられて、蚕を育てることになるのだった。
そして蚕の糞も集め、野草と交互に積み重ねることで発酵させ、それを3年ほど寝かせ、ほぼ土になるので、掘り返した土と灰汁を混ぜることで硝石を抽出するのである。
欠点は雨で硝石が溶け出してしまうので屋根がある場所の下でしか生産できないが、蚕を育てる小屋の床下に穴を掘っておく事で雨対策とした。
絹も硝石製造も効果が出るのは数年後であるが、出費が増え始めた毛利家の稼ぎになることを願ったのだった。
馬がいけたのでペットと称して豚の導入も行われ、家畜小屋が設置された。
豚は雑食の為に何でも食べるし、鶏糞みたいに即効性は無いが、土の栄養を整える効果を持つ肥料となる。
半年で大きくなり、冬の貴重な食料にもなるし、鶏と違い、イノシシの仲間と言えば、食肉への忌避感も全く無かった。
特にソーセージは保存食として有用で、合戦でもソーセージを入れた竹製の筒の中に干米や味噌と一緒に入れておき、水でそれらを茹でて即席の雑炊にすることで食べると活力を与えると兵達から喜ばれた。
毛利軍の常備兵達の武装や持ち物なんかもこの頃には決まってきていた。
まず陣笠は鉄製に統一されていた。
革製よりも重くなるが、革製だと矢を防ぎ切る事が難しく、更に鍋にして使うにも革製だと水を入れてないと穴が空いたりして使いづらい。
なので防御力と鍋に出来る点で鉄製になっていた。
陣笠と一緒に日除け布という装備も配られていた。
普通の布であるが普段は日除けに使い、熱中症の予防、負傷時はこの布で止血したり当てることで応急処置することになる。
寝る時はこれを巻いて枕代わりにすることも出来る。
胴には元就が職人に依頼して作ってもらった桶側胴と呼ばれる防具を身に着ける。
桶側胴は細長い鉄板を横に数枚貼り合わせた鎧で、突かれることに対して高い防御力を誇り、矢による殺傷も防ぐことができた。
籠手と脛当は普通の物であるが城下町で量産される物を毛利家が買い取り、兵に与えていた。
刀も数打ちであるが1本は必ず支給され、槍兵や弓兵には槍や弓も貸し出された。
他には藁を編んだ寝むしろという敷布団代わりにするむしろを担ぎ、それを縛る縄は芋の蔓を編んで作った芋がら縄を使っていた。(非常時にはこれをお湯で溶かして食べる 味噌が練り込まれていることが多い)
寝むしろには鎌やナタをくるませて持ち運ぶ。
あとは兵糧袋と呼ばれる兵糧入れ、腰巻と呼ばれる小物を入れる布、竹製の水筒2本、火打ち石や砥石が入っている袋に草履あとは自前の刀……これが毛利家の兵達の兵装である。
足軽とほぼ同じであるが、殆どが支給品であるのが他所との違いである。
先ほども紹介したが、支給される飯で竹筒にソーセージと米が入っている雑炊を食べることもある。
他所と比べるとこれでもだいぶ豪華である。
もう少しすると銃兵の装備が追加され、火縄銃を運用することにも繋がっていくのであった。
あとこの年は怜が2人目を出産し、元気な女の子であった。
長女が小春だったが、2人目は継と名付けられ、お継とか継姫と呼ばれるようになるのであった。




