1514年 1515年 毛利興元の死
「ふん!」
すぽん
「おぎゃあ! おぎゃあ!」
産婦人科でも5回目ともなれば慣れたもので10分もかからずにお産を終えることが出来た。
産婦人科の先生にもう顔を覚えられても良いと思うが、認識阻害の影響で何か言われることも無く、入院をして、5日間過ごして退院して戦国の世に戻るだけであった。
ちなみに男の子で名前は戌五郎である。
「母上!」
「賢太郎も大きくなりましたね!」
数え年で5歳……実年齢4歳の長男賢太郎は元気いっぱいでまだ早いと思われたが、家臣達が馬に乗る姿を見て真似て馬に乗って走り回っていた。
賢太郎の教育係を任されていた国司元勝(毛利十八将国司元相の叔父)は元気いっぱいな賢太郎の行いにいつも若様〜と情けない声をあげて追いかけていた。
4歳の賢太郎は遊ぶこと、食べること、寝ることが大切なので、よく食べさせて、興味あることをやらせて、寝ると自由にやらせていた。
国司元勝は武士らしく教養を覚えて欲しいらしいが、それはもう少し後からで良いだろう。
「母上! 元勝から習った!」
今日は元勝に言われて習字をやったらしく、毛利賢太郎と自分の名前をちゃんと書くことができていた。
随分と発育が良いなぁと思いながら
「賢太郎は賢いねぇ! 将来は毛利家を分家として支えていかないとね」
「分家? ……うん! 弟達と一緒に支える! えっと……興元様を支えれば良いんだよね?」
「そうそう。頑張ろうね」
賢太郎も順調に育っている中、宗家のマヤ姫も第二子を出産し、この子も女の子であった。
史実だと毛利興元は男児1人、女児1人を授かって亡くなっているが、母親が違うためか、女児2人の出産であり、男児を産むために出産後にも盛っているらしく夫婦仲は良好というのが猿掛城にも聞こえてくる。
マヤ姫の出産後1ヶ月過ぎると今度は怜の出産となり、初産かつまだ実年齢が15歳と若い事もあり、出産時は相当苦しそうであったが、無事に女の子を出産するに至る。
「自分の娘というのは可愛いですね! 男の子だったら実家の吉川を継がせる事も出来たのですがね」
「まぁ気長に育てて行きましょ。怜ちゃんの娘ちゃんも怜ちゃんと同じく美人に育つように育てないとね」
「はい! 彩乃姉様みたいに立派な良妻賢母にしてみせます!」
「でもやっぱり怜ちゃん母乳の出が悪かったね」
「はい……彩乃姉様悪いのですが……」
「うんうん、私は逆に1人だと多すぎるくらいだから怜ちゃんの娘ちゃんにも授乳させてあげるからね!」
「ありがとうございます」
正室が側室の子供の授乳をするという戦国の価値観ではあり得ない現象であったが、私が認めていた為に他の家臣達や侍女達からも止められる事は無かった。
それどころか正室と側室の仲が良いのを見て奥方を仕切っている杉殿も微笑ましく見守ってくれていた。
マヤ殿との仲も良好で、この母親3人の関係が後々の毛利に大きな影響を与えることなる。
1515年になると伯耆を制圧した尼子経久がいよいよ本性を表し始める。
この時点で文武両道かつ尼子経久より統治者としては才覚が抜けていると言われた尼子政久を失っており、地盤を固めるためにも外征を繰り返すしか国を纏めることが出来ない悲しきモンスターと尼子家はなっていた。
そこで狙われたのが石見に食い込む毛利家であり、出雲の尼子国衆による侵攻を度々受けるようになっていた。
尼子が本格的な侵攻があった場合、吉田郡山城が毛利家の生命線であることを理解していた毛利興元は元就と志道広良達に城の改築を続けさせて、自らは石見や安芸の攻撃を受けている家臣達の城に援軍として転戦し、時には備後北部からも攻撃を受けた宍戸家の救援に軍を出して必死に防戦の構えを見せていた。
陣が長くなるとどうしても酒量が再び多くなり始め、マヤ姫が嗜めてもストレスが徐々に体を蝕んでいってしまった。
こうなってくると家臣達も大内家に従属しているより尼子に寝返ってしまい、尼子側として活動した方が毛利にとって利益になるのではないかと思い始め、国人衆の家臣お得意の勝手に外交をし始める行為を行い始めてしまう。
本来咎めるべき興元も今家臣を処罰すると家中騒乱となるため手が出せずに、更にストレスを溜めてしまう。
しかし、ここで遂に着工から2年……安芸一番……いやこの時代では匹敵するのが月山富田城以外無い程の巨大な山城……新吉田郡山城が完成する。
城の各所には連射式のクロスボウだったり、射程800メートルを誇る強弩と呼ばれる巨大クロスボウが鎮座する砲台も設置されて壮観な出来であった。
新しい吉田郡山城を歩いた毛利興元はこの城があればどんな強敵だろうと防ぎ切ることができると自信を深め、家臣達の前で尼子ではなく大内家に引き続き臣従を続けることを宣言するのであった。
一応この年が史実では死亡年数だった為に元就は毛利興元の体調に気遣っていたが、家臣達の前で宣言した時や評定で会った時も顔色は良さそうだったので酒の飲み過ぎに注意することだけを伝えていたが、マヤ姫が3人目を妊娠が発覚し、喜んで宴を開いていた時に事件が起こる。
食事を摂る前に家臣達の前で次こそは男児をと願掛けを行っている最中に急に頭を抑えて倒れてしまい、そのまま急死してしまったのである。
史実では酒毒とされていたが、酒の飲み過ぎで頭に血栓ができ、それが詰まってクモ膜下出血を起こしたのが死因と思われる。
酒の飲み過ぎ……酒のつまみで塩分を取りすぎたのが仇になったと思われる。
私も症状を聞いてあくまで断定でしか無いのだが……。
吉田郡山城で緊急の評定が開かれ、毛利興元に男児がまだ存在せず、マヤ姫のお腹の中に居る子が男児でなかった場合直系が断絶してしまう為、この場合元就が新当主になるのが良いのであるが、マヤ姫が大内家重臣杉家の娘であるのが家臣達の間で当主選定を難しくし、元就がならばと
「ワシの息子賢太郎とマヤ姫の長女鶴姫を婚約させる。嫡流の流れを途絶えさせること無く、杉家の面目を潰すこと無く、遺恨無く家督継承させるにはその方がよかろう。ワシと弟の(相合)元綱を賢太郎の後見人として毛利家を動かしていく。それで良いな」
この時相合元綱を新当主に擁立する動き家臣達の間で起こっていたが、相合元綱がいの一番で
「相合元綱、毛利元就殿の意見に賛成です。以後毛利家宗家の後見人として支えていく所存!」
と力強く宣言。
相合元綱を推していた家臣達も後見人に元綱がなるならば毛利家中枢に権限を侵食できるだろうと最良ではないが次点の良策であると賛成していき、元就様を新当主に推していた人達も納得し、重臣15名と元就と元綱の合計17名が毛利家の新当主を決定する決起文に署名した。
マヤ姫に直ぐにこのことを伝えられ、マヤ姫もお腹の子供がどちらか分からない状態で実家に戻されるのでは無いかを不安視していたが、引き続き娘さん達やお腹の子供を大切にしてくださいと元就様がら言われ、吉田郡山城に引き続き生活することが出来ることで安心したし表情を浮かべた。
一応元就が吉田郡山城に入り、猿掛城は井上俊久を城代に、城主は小次郎に与えられることで決定した。
毛利興元の葬儀も無事に終わり、京にいる大内義興からも賢太郎の家督継承が認められたが、毛利家が混乱していると見てチャンスと感じた安芸武田家が動き始めるのである。




