1513年 吉田郡山城改築開始
1513年(永正10年)になり、私は4人目の懐妊が判明し、秋頃には4人目の出産となるだろう。
私とは別にマヤ殿のお腹も膨らんできて、そろそろ出産しそうであり、毛利家中はなるべく男児が産まれて欲しいと願うのであった。
そして産まれてきたのは女の子であり、マヤ殿は落胆したが、毛利興元は大喜び、男児はそのうち産まれるだろうと楽観視しており、夫婦仲も良好で数ヶ月後にはまたお子さんを孕んでいたので毛利家の男性は種が濃いのだろうとマヤ殿と私は話すのであった。
まだ妊娠初期で動ける間にやるべきことはやっておこうということで、私と元就様は猿掛城の家臣達と一緒にコンクリートの実験を行っていた。
「真っ白な石……硬く……頑強……これが人工石!?」
元就側近の粟屋元忠は簡単な理科を元就から習っていたが、本当に人工石……コンクリートができたのが信じられていなかった。
他の人達も半信半疑であったが出来上がったコンクリートブロックを見て驚愕していた。
「彩乃姉様また凄いものを作りましたね……!」
勿論その場には怜も見学に来ており、材料を書き記した書物を見ながら、材料がこの程度で出来上がるのかと他の家臣達と感想を言い合っていた。
コンクリートの材料としてまずセメントを作らなければならないが、セメントは石灰石、粘土、珪石、鉄粉、石膏を8対1対0.5対0.3対0.2の比率で混ぜるとセメントと言う粉末が出来上がる。
これを水だけと混ぜるとセメントペースト……ひび割れたコンクリートなどの補強材や表面加工……滑らかな肌ざりの素材に使われる。
これに砂を混ぜるとモルタル……レンガの接着剤や壁材や床に使われるドロっとした液体であり、ヘラで床や壁をならしている作業をしている人が扱うのがモルタルである。
最後にセメントに砂と砂利を混ぜるとコンクリート……これは言うまでもないが近代土木に必要不可欠な素材となる。
ちなみにこれらの素材は全て毛利領内で採掘可能である。
石灰石は宍戸家と大内領内に大規模な産地があるが、用途が全く分かっておらず、ほぼ手つかず、毛利領内でも少量産出する。
粘土は川沿いから幾らでも産出し、珪石も石見国境付近で少量採掘可能。
石膏も宍戸領や吉川領内で大量に採掘出来る場所があり、毛利領内にも採掘可能な場所がある。
砂や砂利は言うに及ばず……。
コンクリートやセメントは毛利友好勢力の力を使えば大量生産可能である。
城作りでは城の土台となる石垣は勿論、南蛮貿易により戦国時代末期から江戸時代初期に伝来した南蛮練塀がコンクリートを扱う塀であり、土壁と違い圧倒的な強度により破城槌や丸太で城門や塀を破壊するのであるが、南蛮練塀はある程度の厚さがあると効かなくなる効果があり、普通の城を堅城に作り替える事が可能であった。
あと材料がとにかく安いのも特徴である。
あと燃えない為、蔵を作るのにも向いており、土倉よりも修繕を続ければ長く持ち、安価で建てられる夢のような素材であった。
「この様な素材があったとは……」
「一部素材は見向きもされていなかった素材……それに出来上がった人工石は美しい白色……これはなかなか」
家臣達が次々に驚きを口にするが、城の防御力を上げる以外にも道路を整備するのに使えるという利点がある。
毛利領内には主要な街道は無く、多くの物資を運搬するのに苦労ているため街道整備に使ってはと元就様に言うが
「彩乃わかってないのぉ……これが安芸国全てを掌握していたりすれば街道整備は物流を良くし、迅速に軍を展開出来る利点が勝るが、今の毛利領内じゃとわざと道幅を狭くして大軍が展開できないようにし、防御力を高める方が利点なのじゃよ」
「戦国の世ということを失念していました」
「なに、しかたがなかろう。合戦も防衛戦では無く侵攻ばかりじゃったからな。しかしこれは吉田郡山城に使ってこそ意味があるのぉ」
「毛利の本拠地ですか……しかし大規模な改修となると興元様の許可が必要になるのでは無いですか?」
「うむ……尼子の動きを見ていると今の吉田郡山城では耐えきれないと思ってな。資金もあるし、人夫を雇い、一気に着工してしまった方が良いと思うてな」
「良いんじゃないですか? 元就様、これを機会に教育してきた家臣達だけでも猿掛城を回す経験を積ませたり、城の改修は良い経験になると思いますよ」
「うむ……そうじゃな。猿掛城も城兵の補充と教育期間で当分戦闘には使えんじゃろうし、兄上に聞いてみることにするのじゃ!」
数日後、毛利元就は毛利興元や家臣達にコンクリートの実物を見せた。
「これほど強度のある人工石が安価で出来上がるとは!」
「材料も毛利領内と友好勢力で揃えられるし、他の勢力は建材の材料とはみなさんな」
「城作りが抜本的に変わりまするなぁ……」
「この人工石を使い、今こそ吉田郡山城を更なる堅城へと生まれ変わらせたいのじゃ。今までの吉田郡山城は毛利全兵力だった1000名が籠もれれば良い城じゃったが、勢力が拡大した今、詰められる兵数を増やし、曲輪の数も整備したいのじゃが……兄上、どうかワシに吉田郡山城の改修を任せてはくれぬか」
「そうですね……城作りの経験のある志道広良と桂広澄の補佐を受けること、私の意向を反映させるのであれば許可しましょう」
「ありがとうなのじゃ! 予算は言い出したワシが持つから兄者はゆったりとマヤ殿と生活をしていて欲しいのじゃ」
「ちょ! ……そうですね。弟の気遣いを受け取りましょう」
「あと四郎……いや元服したかは相合元綱にも城作りを学ばせたい故に一緒に陣張りから従事させたいのじゃが」
「そうですね。若い元綱にも是非とも学んでもらいましょう」
こうして史実より前倒しで吉田郡山城の改修工事が開始し、更にコンクリートを使って戦国中期に江戸時代でも類をみないほどのガチガチの堅城の建設に取り掛かるのであった。
元就は各地で金を出すと言い触らし、安芸国各地より5000人の人夫を集めて、商人達から材料をかき集めてもらい、秋の収穫後から工事を開始。
猿掛城城下で大量に作っていた鉄製のスコップを使い、空堀を掘っていき、土を盛ってその上からコンクリートブロックで石垣を組んでいく。
更にモルタルで表面を均していけば梯子が無ければ登ることが不可能の4メートル超えの石垣が完成する。
更にそれを登ったとしても2メートルの南蛮練塀が待ち構えており、更に練塀には弓を放つことが出来る穴……矢狭間と呼ばれる場所が幾つも作られており、ここから将来的には銃を放つことも出来る防御施設になっていた。
更に角にはコンクリートで作られた櫓が建てられており、そこから敵の進撃を早期に発見したり、弓を打ち込む事が出来るようになっていた。
吉田郡山城は道が2つ、無理をすれば4方向から城に登ることが出来る城であるが、どの道も狭く、大軍での進撃は不可能であり、曲輪を増設したことで巨大要塞の様になり始め、井戸を幾つも掘り、手押しポンプで汲み上げられる箇所と釣瓶式に桶を落として滑車を引っ張って汲み上げる方式も用意し、水攻めを受けても耐えられるようにした。
総工費2万貫、工事期間2年半の大工事であったが、多くの家臣の手を借りて完成した吉田郡山城には6000の兵が2年籠城することの出来る蔵もあり、普段生活するための本城兼政務を行う場所を旧吉田郡山城であり、城の規模は5倍以上に巨大化するのであった。
この早期の吉田郡山城改築工事が毛利の今後を大きく左右することになるのをまだ誰も知らないのであった。




