だから私は、君が知りたい
私たちが話し合いをしていた間に父と陽向さんの間でも話が進められていたようで、お店に戻ると二人が我が家に引っ越してくる日取りが決まっていた。どうやら荷造りは終えていたようで、明後日には来れるとのことだった。だから早いんだって。
「それでは、また明後日ですね」
陽向さんがそう言って、父が「うん、待ってるよ」と応じる。それに頷いた陽向さんが私の方を見たから、私も何か言わなきゃと頭を回した。けれど、出てきたのはありきたりな言葉だけだった。
「これからよろしくお願いします」
それでも嬉しかったようで、陽向さんは顔をほころばせて帰っていつた。複雑な表情の優雨と正反対で、思わず笑いそうになってしまったのはここだけの話だ。
二人を見送ってから私たちもお店を出る。夜だというのにセミがたくさん鳴いていて、それが暑さをより増幅させているようだった。
並んで歩いていると、突然話しかけられた。
「優雨くんとは何を話していたんだい?」
「ん、私が姉だぞっていう威嚇」
「くれぐれも仲良くしてほしいな……」
「冗談だってば。普通に、これからよろしくねって」
「そうか、それならよかったよ。年頃の男女が突然家族になるなんて、そうそう受け入れられるものではないからね。まったくの偶然だけど、同級生だったから話しやすいっていうのもあったのかな」
おっと、父がまたいろいろ言い始めた。ということは例の如く言いたいことが別にあるということ。仕方ないので今回も私から切り出してあげよう。
「父さん、言いたいことがあるならはっきり言う」
「……本当に敵わないな」
「ほら、何が言いたかったの?」
「そうだなあ……愛理は僕の再婚、本当に許してくれるのかい?」
この人はどれだけ心配性なんだか。私はちょうどいい高さにあった父の脇腹を小突いた。
「私、父さんがいたからここまで育ったんだよ。全部父さんのおかげなの。そんな父さんが新しい幸せに向かって踏み出すことに私が反対するなんて、そんな罰当たりなことするわけないじゃん」
「愛理……」
「いい機会だから言わせてもらうね。父さん、今まで本当にありがとう。まあ、これからもお世話になる気でいるんだけどそれは置いといて。これからは二人だけじゃなくて四人で幸せを掴みにいこうよ」
父からは何の反応もない。おそらく泣いているのだろうか、静かに鼻をすする音だけが聞こえてきた。じんわりと暖かい空気になったところ大変申し訳ないんですが、今からこの空気をぶち壊します。
「それはそうと」
「……何だい?」
「必要な情報を伝えなさすぎ」
「それについては申し開きの余地がないです、はい」
しゅんと項垂れる父は心から反省しているようだった。もう何も言う必要はないのでは、とも思ったけれど、どこが駄目だったのか具体的に伝えなければ改善は見込めない。私は心を鬼にして言葉を続けた。
「何で顔合わせのことを当日に伝えるかな。いや、まあ……それはまだ許せるよ。それよりも同居する件は何よりも優先して伝えてほしかった。忘れてるかもだけど、私は一応父さんの一人娘なんだからね?」
「いや、まったく……」
「落ち込みすぎでは?」
「娘から叱られることなんてそうそうないからね。この歳になってなお学ぶことばかりだよ」
遠い目をしてそう呟いた父はどこか嬉しそうだった。それを見てしまった私の中からこれ以上文句を言おうとする気持ちが霧散して、代わりにこんな言葉が口をついて出た。
「それが、家族なんじゃない?」
父が目を丸くしてこちらを見た。そんな表情を見るのは初めてだったので少し驚いたけれど、私はそのまま思っていることを言葉にした。
「当たり前だけど、私だって父さんについて知らないことはたくさんあるし。お互いの知らない部分をゆっくりにでも知っていくのが家族っていう関係性なんだと思う。恋愛を知らない奴が何言ってるんだって感じだけど、だからこそ、優雨や陽向さんともちゃんと家族になれるんじゃないかなって思うよ」
「……ずっと見ていたはずなのに、こんなにお大きくなっていたことに気づかないなんて父親失格だね」
そう言って自嘲気味に笑う父。私は思わずツッコミを入れてしまった。
「父さん話聞いてた? 家族に失格も何もないんじゃないかってことなんだけど?」
「ふふ、わかっているよ。ただ、娘の成長に気づけなかったことが少し寂しくてね」
それはおそらく私が色々な人間と関係を持ってきたことによるものだろう。今まで出会ってきた男の人たちは──もちろん同性もいたけれど、本当に十人十色の価値観を持っていた。
これはまあ仕方のないことなんだけど、そこはどうしても家庭環境に対して悩みを抱える人間が集まっていたので、その点について意見を交流する場にもなっていた。
だからというのもおかしな話だけれど、私は自分が行っている夜遊びをそこまで悪いものだとは思えないのだ。もちろん私のやっていることがが世間一般的に不良行為であることは重々承知の上だし、父を心配させていることについて罪悪感も持っている。
それでも、父にも話せない悩みを共有できる場はそこしかなかった。
父がそのことを『成長』と呼んでくれたことが意外で、少しくすぐったい。おまけに鼻の奥がツンと痛んできて、これではさっきの父を笑えない。
「路上で長話するものでもないし、そろそろ帰ろうか」
「……うん」
父はそれ以上何も言わず、ただ私の歩幅に合わせてゆっくりと歩いてくれた。その気遣いが何より温かくて、私は少しだけ父の方に体を寄せた。
いろいろ激動の一日ではあったけれど、家族という存在のありがたさ、大切さを改めて理解することになる一日だった。
夜遊び、少し控えてみようかな……。
# # #
次の日、どうやら私は昼過ぎまで寝てしまっていたらしい。
顔を洗ってリビングに行くと、テーブルの上にはすっかり冷めてしまった朝ご飯と父の置き手紙があった。
『昨日のあれこれで疲れているだろうし、しっかり休みなさい。それと、昨日できなかった話があるので今日の夜も家にいてください』
ふむ、私の予想が正しければ父の言う『話』というのはきっとあのことだろう。私が今日の予定を確認しようとスマホを取り出すと同時、メッセージが届いた。昨日やり取りを途中で終わらせてしまったタツキくんからだった。
『昨日は急に連絡途絶えたから心配したよ』
上っ面だけの心配を告げるそんなメッセージが酷く空虚に思えて、私は何て返信しようか迷ってしまう。今までこんなことはなくて、何なら私も同じように中身のない空っぽなメッセージを送っているところだ。 昨日の父との会話が影響しているのかもしれない。思ってもいなかった、あまりにも早すぎる自身の価値観の変化に驚きつつ、既読をつけてしまった以上何かしらの反応を返さなければと頭を回す。
結局、何の当たり障りもないメッセージを返してしまった。
『ごめん、急に眠くなって』
すぐに既読になる。
数秒後、新しくメッセージが届いた。
『健康すぎwww 昨日話してた件、僕今日暇なんだけどどう?』
昨日の件……ああ、そういえば会う約束を取り付けていたんだった。日程調整の前に父から話を振られてそのままになっていたことを思い出す。まあ、夜遊びするわけでもないし、父が帰ってくるまでに家に帰れば問題はないだろう。
私はその旨をタツキくんに伝えた。
『いいよ。夕方までになるけど、それでもいい?』
『わかった。一時間後に名古屋駅の金時計前で』
返信が来るまでに、今度は少し間があった。
というか一時間後に名駅って、今すぐ出ないと間に合わないじゃんふざけるな。
私は急いでメイクの用意をした。
# # #
本当にあの女の容姿が遺伝しているのは好都合だ。ただただ癪ではあるけれど、時短の簡単なメイクでも整って見える点についてはほんの少しだけ、一ピコメートルくらいなら感謝している。単位が合っているのかは知らんけど。
とはいえ、私は指定された時間に間に合った。
名古屋駅の金時計、エスカレーターの裏側で待機することにする。金時計そのものはいつでも混雑しているから、少し離れたこの辺りが待ち合わせにはちょうどいいのだ。
お互いに服装を伝え合っているのですぐわかるだろうと思い、到着したことをタツキくんに伝える。すぐに声がかけられた。
「アイリさん?」
振り向くと、そこには長身の男性が立っていた。見た目は若い。高校生から大学生くらいだろうか、歳が近そうなことに私は彼に気づかれないよう、少しだけ安堵の息を吐いた。
「タツキくん……でいいのかな? 初めまして、愛理です」
私は清楚さを持たせた挨拶をする。第一印象は何より大切だから。
だけどちゃっかり警戒心も持ち合わせておく。自己紹介の際にフルネームを言わないのは最低限の自己防衛。まあ、知らない相手と会っている時点で清楚も防衛もないけれど。
「どうも、加茂達樹です。急に呼び出しちゃってごめんね」
「いえ、ちょうど暇してたので」
「それならよかった。じゃあ行こうか」
初対面の印象は爽やかそうな人。その一方で、私は少し達樹くんに対しての警戒レベルを上げてしまった。理由は単純で、『どこに』という目的を告げずに行動を開始したから。
連れてこられたのは、太閤通り口を出てすぐのカラオケ店だった。それならば集合場所は太閤通り口側の銀時計にした方が移動の手間が省けて楽になる。待ち合わせ場所の知名度だけで金時計を選んだのがバレバレだ。そして私はここでも警戒レベルを一段階上げることになる。初対面の異性といきなり個室を選んだ達樹くんは、今の時点ではまだ信用できない相手だ。
まあ、監視カメラがあるカラオケなら変なことはされないだろう。
「先に予約してたんだけど、カラオケで良かった?」
「はい」
いいわけねーだろ、と心の中でツッコミを入れて指定された部屋に入室。本人に確認を取らず個室予約、はい警戒レベル上昇案件。『予約しちゃったから』で相手の逃げ道を奪うのは悪手でしかない。だけど警戒して肩肘張ってばかりなのも良くないので、私は割り切ってカラオケを楽しむことにした。それはそうと、ドリンクから目を離すことのないようにしないと……。
# # #
結論から言えば、カラオケはめちゃくちゃ楽しかった。達樹くん、歌うま系男子でした。二時間しかカラオケにいなかったけれど、それでも私は彼の歌声のファンになってしまった。
「達樹くん、歌すごい上手いですね」
「ありがとう。直接言われるとさすがに照れるな……」
カラオケを出て歩きながら賞賛の言葉を口にすると、達樹くんは分かりやすく照れた。この二時間でわかったのは、達樹くんは単に女性慣れしていないんだということ。話を聞くとどうやら女性が苦手らしく、少しでも克服したくて色んな女性と会っているらしい。苦手な原因は教えてもらえなかったけれど、この人も家庭環境に何かあるんだろうか。
もしそうなら少しだけ素を見せてもいいのかな、なんて考えていると達樹くんから話しかけられた。
「愛理さんって学生なんだよね?」
「はい」
「プロフィールには『学生』としか書いてなかったけど、高校生?」
「…………はい」
「……っ、そうなんだ」
唐突に不穏な空気になる。今、舌打ちされた?
私はすぐに逃げ出せるように準備だけして、視線で達樹くんの言葉の続きを促した。
「いや、すごく大人っぽいから大学生なのかなと思って」
「よく言われます」
「ということは、今は夏休み?」
「はい」
そんなやり取りをしていると、周りから人の気配がなくなっていることに気づいた。同時に自分の過ちを理解して背筋が凍る。
個室で何もされなかっただけで、相手の歌が上手かっただけで油断してしまった……? 馬鹿じゃないのか、私は。
「ダメじゃん、高校生がマチアプなんかに手を出したら」
どくん、どくん、と心臓が早鐘を打つ。嫌な汗が背中を流れる。
呼吸が速く、浅くなり、私は達樹くんから目を離すことができなくなっていた。やばい。
やばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばい──。
「僕、女性慣れしてないって言ったじゃん。ちょっと語弊があってさ、真剣交際に慣れてないだけなんだよね」
達樹くんの笑顔が歪んだ。どういう意味かわかるよねという声が聞こえてきて、私は全ての終わりを悟った。
その時だった。
「…………愛理?」
後ろから、聞こえるはずのない声が聞こえてきた。
「優雨……っ!?」
「愛理、ここで何してんの?」
それはこちらのセリフだ、そう言おうとしたけれどできなかった。
優雨はそんな私と達樹くんを見比べて一瞬で状況を理解したのか、納得したような顔で近づいてきた。
「お兄さん、愛理が何か?」
「……君は?」
達樹くんは、気味の悪い笑顔を貼り付けたまま優雨に尋ねた。優雨はその笑顔に怯むことなく、何でもないようにサラッと答えた。
「愛理の義弟です」
「……似てないね」
そりゃあ血が繋がってないから、なんて場違いな思考に陥りつつ、私は優雨と達樹くんのやり取りを見守ることしかできなかった。
「それで、お兄さんは何を?」
「いやあ、この子が迷子だって言うから道案内をしてたところ」
飄々と嘯く達樹くんに対して、優雨は冷静だった。冷静に、笑顔で応じた。
「道案内ですか。こんな路地裏に?」
「…………僕も迷っちゃってね。路地が多くて参っちゃうよ」
瞬間、優雨の顔から笑顔が消えた。
「もういいよ、お兄さん。回りくどいのはやめにする」
「……は?」
「警察、呼んであるから。逃げるなら今だよ」
「……っ!? 先に言え馬鹿!」
次の瞬間、私の手首が軽くなる。どうやら気づかないうちに達樹くんに掴まれていたようで、それが軽くなったということはつまり私の解放を意味していた。
当の達樹くんは『警察』という言葉に負けたようで「クソっ」と捨て台詞を吐いてあっさりその場から去っていった。私は優雨に救われたらしい。
そして、この場に残されたのは私と優雨だけになった。
# # #
何を言うべきか、何を言われるかわからなくて、気まずい沈黙が流れる。昨日の今日でこんな姿を見られて、今後に対する不安が一気に押し寄せてきた。
「噂は本当だったんだね」
沈黙を破ってくれたのは優雨だった。
「噂……?」
「クラスで噂になってるよ。篠原愛理は、その、男遊びしてるって」
言いづらそうにそう言った優雨。
別に隠してるつもりもなかったんだけど、と思いながら何て返そうか悩んでいると、突然に罵倒された。
「馬鹿じゃねえの?」
「……へ?」
「普段からこんなことやってて、今まで危険な目には遭ってこなかったわけ?」
「まあ、うん」
「相当ラッキーだったんだな」
ラッキー、そう言われて改めて先程の自分の危機を思い返す。
実感が伴っていなかったのか、遅れて鳥肌が立つ。
「僕が通りかからなかったらどうなってたのか考えろよ。同居初日から警察沙汰とかごめんだぞ」
「それは、申し訳ない……」
「てかいつまでそこにいるの。こっち来なよ」
そう言って優雨は背を向けた。
慌てて私がついて行くと、優雨は少しだけ歩くスピードを緩めてくれた。
「どこ行くの?」
「どこって……帰るよ」
「帰るって、優雨の用事は?」
「あんな現場に遭遇したら何もかもどうでもよくなった」
「うっ……」
申し訳なさを感じ、謝ろうと口を開きかけたところで優雨に先手を取られた。
「それに、愛理を一人にしたら駄目な気がして」
「え?」
「体震えてるよ」
そう言われて、自分の体の震えに漸く気づく。さっきから思考と行動がちぐはぐで、私はやっと自分の感情を言葉にできた。
「…………怖かったあ」
「……それだけ?」
「え、うん」
怖かったのは事実、でもそれだけだ。
まあマッチングアプリは使わなくなると思うけれど、これ以上うだうだ言っても仕方がない。実害はなかったし切り替えて前に進もうと思っていたのに、隣を歩く優雨が突然立ち止まった。
「だから馬鹿だっつってんだよ!」
「…………?」
「愛理の過去に何があったかは知らないよ。けどさ、それは自分の感情に蓋をしていい理由にはならないでしょ……」
ぽかんとする私に構わず優雨は言葉を続けた。
「昨日だってそうだ。同居のことを何も知らされていないとか、普通ならもっと取り乱すよ。なのに愛理は『仕方ない』って言葉で全部片付けようとしてる」
「……それは」
図星だった。
何も言い返せなかった。
だってそうだろう。自分がどれだけ足掻いたってどうにもならないことはある。高校生なんてちっぽけな存在が足掻いたって意味がない。仕方ないんだ。あの日からずっとそう思って生きてきた。
そんな私の心を読んだかのように、優雨はさらに言葉を重ねた。
「自分の存在の小ささに絶望する気持ちもわかるよ。でも、だからこそ! 僕らが考えを口にしていかなきゃ何も変わらないんだよ」
「────っ!」
雷に打たれたのかと思った。
そんな風に考えたことなんてなかった。
「いいの?」
「そりゃそうでしょ」
「もっと自分に素直になっていいの……?」
「もちろん。だって僕たちはまだ高校生なんだから、ワガママに生きていかなくちゃ」
その言葉が我慢の限界だった。
気がつくと、涙が溢れていた。
「優雨……」
「うん」
「すごい怖かった。もう駄目なんじゃないかって、怖かったよぉ」
私は優雨の服を握って、高校生とは思えないくらい泣きじゃくった。周りの視線も気にならないくらい自分の感情に正直になった。
それでも優雨は、私が泣き止むまでそっと背中を撫で続けてくれた。初めて触れる同級生の掌は、とても安心できる温もりを持っていた。
# # #
優雨は約束通り私の家まで着いてきてくれた。
「ごめん、家まで遠回りだったよね」
「気にしなくていいよ。明日から暮らす家の下見ってことにしといて」
私はその言葉でやっと笑うことができた。
「それで、あの……お願いなんだけど」
「うん。今日あったことは僕たちだけの秘密。母さんたちには余計な心配かけたくないからね」
「本当にありがとう。あの……さ」
どうして急に家族になったばかりの同級生にここまで優しくしてくれるの? そう聞きたかったのに、言葉が出てこなかった。
「どうかした?」
「ううん、何でもない。気をつけて帰ってね」
「ありがと」
「あと、明日からよろしくね」
「こっちこそ」
そんな会話をして、優雨が帰っていく。
その後ろ姿がやけに大きく見えて、自分が義姉になることが嘘なんじゃないかと思えてきてしまった。
ねえ、優雨。あなたのその優しさはどこから来ているの?
初めて抱くこの不思議な感情に、私は早く名前をつけたい。
だから私は、君が知りたい。