今、家族になる
恋をしてみたかった。愛を知りたかった。
母だった女が父を捨てて出ていったあの暗くて冷たい冬の日から、私は愛情がどういうものなのか分からなくなってしまった。家族を見捨てるくらいなら、どうして別れ際に「愛してる」と口にしたのか。いっそ「お前なんか産まなければよかった」と、どこまでも残酷に突き放してくれた方が心の底から嫌いになれただろうに。
中途半端に捨てられた私は、無意識のうちに他者から求められることに飢えていたのだろう。父は仕事にのめり込み、私は家に一人でいることが多くなった。一人家に残される寂しさからか、男手ひとつで私を育ててくれている父に悪いと思いながらも私は遊び歩くことが多くなり、必然的にそういう人たちと関わりを持つことが増えていった。
浅はかだけど、そうすれば愛を知れるかもしれないという淡い期待を抱きながら。
たくさん告白されたし、様々な愛を囁かれた。でも──そのどれもが薄っぺらい言葉だった。心のどこかで、どうしてもそう感じてしまう自分がいた。そんな自分に嘲笑を送りながら、私は体を委ねた。幸か不幸か、あの女の美貌を継いでいた私がそうするだけでみんな喜んでくれた。馬鹿みたいだけど、情けないけれど、そんなことで満たされた気になっていたんだ。
これが私──篠原愛理。愛を知りたい、そんなありふれた一人の女子高生。
そしてこれは、私が"愛の理由を知る"までの物語。
# # #
「父さん、再婚しようと思う」
父からそう言われたのは、私がSNSで知り合った『リクトくん』のアカウントをブロックし、新しく『タツキくん』とやり取りをしている時だった。一学期を終え、午前中で家に帰ると何故か父がいて、「話がある」と切り出されたと思ったらこの発言だ。あまりに唐突で、スマホをいじる手を止めて父を見つめてしまう。こんな私を見捨てない優しい瞳に、驚いている間抜けな私の顔が映っていた。
「……さいこん」
「あぁ、愛理に何の相談もしなかったのは謝るよ。ごめんね」
「いや、別に反対してるわけじゃなくて……急だなぁって」
父の人生なんだし好きにすればいい。そう思って素直な感想を口にしたけれど、返ってきた言葉はどこまでも私を優先するものだった。
「愛理も高校二年生、そろそろ進路を考え始める時期だ。僕だけだとどうしても食事だったりが偏りがちだからね」
「そんなこと言われたら反対したくてもできないじゃん。外堀ガッチガチに埋められてるんだけど」
「愛理にはずっと迷惑をかけてきたから。まぁ、本音を言うならもう少し節度を持った遊び方をして欲しいけど、きっとそれもストレスが原因だろうし」
今の生活を送っていることに対して何の不満もないし、父から迷惑をかけられたと思ったことなんて一度もない。面と向かっては言えないけれど、ものすごく感謝している。だからこそ、今までの自分の行動を思い返して胸が傷んだ。
私のそんな思いが伝わったのか、父がふっと柔らかな表情を浮かべた。それでもその笑顔はどこか寂しげで、父はそのまま言葉を紡いだ。
「幸い……とは言い難いけれど、愛理の養育費はしっかり送られてきているから好きな進路を選ぶといいよ。父さんは愛理が決めたことなら反対するつもりはない」
もはやタツキくんのことなんてどうでもよくなって、気づけば私はメッセージアプリを閉じて父の話に聞き入っていた。何故なら父のその言葉には裏があるようにしか思えなかったから。
「父さん、何か隠してる?」
「……どうして?」
「娘の直感。何ていうか、私のためなのは伝わるけど、父さんが幸せになるためならそこまで理屈っぽさは必要ないでしょ。伝えたいことを後回しにするのは父さんの駄目なところ」
「て、手厳しいな」
「ずっと見てるから嫌でも気づくよ」
ほぼ確信のようなものは持っていた。大切な話の要点の前に色々理屈を並べるのは父の癖だから。ずっと二人で暮らしてきたのだから、そんなわかりやすい癖を見逃すわけがない。果たして、父は諦めたように大きく息を吐いた。
「はぁ……。我が娘ながら恐ろしい洞察力だよ」
「何隠してるの?」
「断っておくけど、愛理のことを考えてっていうのも本当だからね。それで……再婚相手──陽向さんっていうんだけどね、僕と同じでバツイチなんだ。それでお互い子供がいるという点で意気投合して……」
「えーっと、つまり?」
この話題の行き着く先は想像できたけど、それでもまだ四択。ちゃんと父の口から答えを聞きたくて、続きを促した。
「愛理に血の繋がらない弟ができます」
「義弟……。この歳でですか」
「うん。それともう一つ大事なことがあってね」
そうして発せられた言葉に、義弟ができるという事実以上の衝撃が私の体を電流のように流れていった。
「本当に申し訳ないんだけど、今日の夜に顔合わせがあります」
「……………………はぁ!?!?!?!?!?!?」
「そういうことだから、よろしくね」
そして心が休まる暇もなく、何の心の準備もできていないまま顔合わせ会を迎えることになった。そして、この日……いや、今まで生きてきた中で最大の衝撃が私を襲うことになる。
# # #
「初めまして、愛理ちゃん。穂積陽向と申します」
「……穂積優雨、高二」
「あー…………っと、篠原愛理です。同じく高二」
目の前に座る一組の家族。柔らかな雰囲気を纏う女性──陽向さんはとても上品で、私まで背筋を正してしまうほど。一方で、少し緊張した様子の男の子は意外にも同じ学年だった。不健康なのではと心配になるほど白い肌と整った中性的な顔立ち。まるで人形のような印象をこちらに与えてくるその表情が、今だけは困惑一色に染まっていた。何が何だか、という表情で困ったようにこちらを見つめる彼は非常に画になるレベルの美少年だった。とはいえ彼の困惑も痛いほど理解できる。顔を上げた途端視線がぶつかり、気まずくなってほとんど同時に視線を逸らす。それも仕方のないことだろう。
何せこの穂積優雨という男子高生は──
「クラスメイトだなんて聞いてない!」
「おや、そうだったのかい?」
呑気に相槌を打つ父をジト目で睨みつけ、頭を抱える。だって仕方ないだろう。普通『義弟ができる』なんて言われて同級生を思い浮かべることなんてあるわけがない。てっきり小学生とか、中学一年生とかそんな歳の男の子を想像していた。だけど、何度目を擦っても目の前にいるのは今日の終業式で友人として別れの挨拶を交わしたばかりのクラスメイトだった。目に映る揺るがない事実を現実と受け入れる事のできない私に穂積が一言。
「うっそだろ」
「終業式ぶりだね、穂積……って、そう呼べないのか」
そんな言葉を交わし、ふと口にした言葉が重なった。
「「有り得ん………っ!」」
『事実は小説よりも奇なり』なんて信じていなかった。けれど、これはそうも言っていられない。信じざるを得ない。
父親の再婚相手の息子がクラスメイトでした。こんなことを友人から言われたら、きっと私は笑って冗談だと思うだろう。
「母さん、最低限の情報だけは教えてほしかった」
「右に同じ」
揃って不満を口にする私と穂積。それぞれの親は困ったような、申し訳なさを感じさせる力の抜けた笑顔を浮かべていた。
「ごめんね、優雨。伝えたつもりになってたや」
「愛理、ごめんな」
謝られたところで穂積が幼くなるわけでもなし。大きくため息をついてから改めて私は穂積と向かい合う。それにしても、本当に肌白いな。しかもめちゃくちゃ綺麗。メイク無しでこれとか、女子として自信なくすし何なら普段使っているスキンケア用品を教えてほしい。いや、その場合メンズ用品になるのか。と、いつの間にか思考が脇道に逸れてしまっていた。それを察したのか、穂積はぶっきらぼうに「何?」と言ってきた。父さんは私たちのことを忘れたかのように陽向さんとの会話に興じていた。おいこら。
「ん、実感湧かないなぁと」
「そりゃそうでしょ。この短時間で全部受け入れられる人間がいたら尊敬するよ」
「マジでこれからどうするよ……って、そのことについてちょっと話し合わん?」
「賛成」
短いやり取りで意思の疎通を終え、私たちはそれぞれ親に断って席を外して店から出た。夏真っ只中の熱帯夜、心地悪い熱気に包まれたことですぐに汗ばんだ。
「今後のことを話し合う前に一つだけ確認していい?」
言いづらそうにそう口にした穂積。いったい何を言われるんだと少し身構えながら続きを促すと、予想もしていない言葉が飛び出した。
「篠原って誕生日いつだっけ」
「え、九月三十日」
「何でそれで義姉なんだよ……」
すごく悔しそうに呟いた穂積。こいつの誕生日っていつだっけ、なんて考えていたら、心を読まれたのかと思うタイミングで穂積がこう吐き捨てた。
「十二月生まれをここまで恨んだことはない……」
「あーね、どんまい。てかそんなに重要なこと?」
「逆の立場で考えてみてよ。同級生の義妹になったとしてどう思う?」
「プライドが許さん」
即答だった。だからこそ、どんまい穂積。
しかし穂積は案外すぐ割り切れたのか、すぐに自分から話題を転換した。その話題が、とても看過することのできない重要な内容だった。
「まあそれは置いといてこれからだよ。母さんから聞いたけど、僕らが篠原の家に住まわせてもらうんでしょ? 同級生男子が自分の家に住むとか、篠原的に大丈夫なの?」
「初耳なんだけど」
とはいえ、よく考えればわかること。別々の暮らしを送っていた人たちが一緒に暮らし始めるとなれば、どちらかの家に住むか新しい家に住むかの選択肢しかない。だから穂積が私の家に住む、という事実に関してはすんなり受け入れられた。
「うち、賃貸だったから……。母さんたちも相当悩んだ末の結論らしいんだけど、聞いてなかったんだ」
「その点に関しては後で父さんを問い詰めるとして……」
そう、穂積たちには何の非もない。何も教えてくれなかった父が悪い。私は店の中で笑顔を浮かべているであろう父に心の中で文句を言って、心配そうな穂積に言葉を返す。
「ま、決まったことにとやかく言っても仕方ないでしょ。色々と思うところはあるけど、同じクラスってリスクを背負った穂積が私に何かしてくるとも思えないし、それはこっちも同じ」
仮に何かしてこようものなら、私の持つ全人脈を駆使して穂積がクラスにいられないようにする。だけど、普段の穂積の生活態度を思い返してみるとその心配もなさそうだ。
「割り切ってるなぁ……」
「いろいろあったからね。確か部屋も余っていたはずだし、残念だけど姉弟だからって同じ部屋になることはないよ」
「いや、期待してないから。でも、篠原が嫌じゃないならよかったよ。これからよろしくでいいのかな?」
呆れた、というような視線を向けてきた穂積がそう言ってきたので、私もよろしくと返しておく。
「そだね。これからよろしく、優雨」
「……へ?」
と、せっかくいい関係を築こうとしていたのに間抜けな声が返ってきて少し気が抜けてしまう。何か変なことを言ったわけでもないだろうにと考えて、何も考えず穂積のことを名前で呼んだことに気づいた。
「ごめん、嫌だった?」
「そういうわけじゃ……。ただ、急だったから驚いて」
「家族になるんだから苗字で呼び合うのも変な話じゃん。私はこれから名前で呼ばせてもらうけど、そっちはどうする?」
「どうするって?」
そんなことを聞いてきたので、私は当たり前のことを説明する。
「だって、私と違って選択肢があるじゃん。名前で呼ぶか、『お姉ちゃん』って呼ぶか」
「それはない。よろしくね、愛理」
即答だった。そんなに私が姉になるのが悔しいのか。
とはいえ、私たちは簡単な話し合いを終えた。お互いに納得できているようで、これなら何の心配もなく新しい関係性に慣れることができそうだ。
斯くして私たちは今、家族になるのだった。