9 王子の戸惑い
事故の日以来、エルマーは憑き物が取れたかのように勉学と仕事に励むようになった。批判されようがもう気にしない。騎士に声を荒げられても自分のやるべきことをやりとげたフローラのように、エルマーもまっすぐにすべきことに取り組んだ。
元来真面目な性格だったエルマーは、どうやらそちらのほうが合っていたらしい。
三年ほどそうして過ごすうちに、めきめきと頭角を現わしつつも兄たちからも信頼されるようになってきていた。
「あとは、結婚か……」
王族であるからには、結婚は義務である。そして難しい立場だったエルマーは十八歳にもなって、まだ婚約もしていなかった。
フローラに惚れたといったところで、それが発展するわけではない。
王子の結婚に自由なんてない。
エルマーの三人の兄はすでに結婚しているが、三人とも好き好んでその人と結婚したわけではない。国際情勢とか派閥だとか、そういうのを考慮して選ばれた女性を義務として迎えた。悪く言うなら、相応しい身分の女性をあてがわれただけ。女性側からしてもそうだろうけれど、王子側だってそうなのだ。
フローラに好意を抱いたところで仕方がない。
すべてが国のため、それが王家に生まれた宿命だ。
エルマーの婚約者選びは難航していた。
強力な後ろ盾となってしまう家柄ではなく、身分が高すぎず、かといって低すぎず、それでいて王子の妻として相応しい気品は兼ね備えた、まだ婚約も結婚もしていない年齢の釣り合う女性。
そんな人いるのか? とエルマーは思った。
どうせなら、このまま見つからなければいい。本音を言うなら、結婚などしたくなかった。寄ってくる女性はたくさんいるけれど、どうせそれは王子という身分を見ているに過ぎないし、そんな彼女たちの機嫌を取って生きていかねばならないのもまた苦痛に思えた。
だけどそういうわけにもいかないのだろう。愛し合えるような関係でなくとも、せめて父と母のように、お互いを尊重し合える関係になれればいい。
諦めるように、そう思った。
そんな時に聞いたのが、大聖女が現れたという知らせだった。
「大聖女となったフローラとの婚姻を命じる」
国王である父にそう宣言されたときのエルマーの気持ちを言葉で表すのは難しい。
強いて言うならば、どうしよう、が一番近い。
もちろん嬉しくて飛び上がりそうな気持ちもあった。だけどそれ以上に困惑もしていた。
馬車の事故があったあの日、颯爽と現れた彼女は、腐りかけて暗黒に足を踏み入れかけていたエルマーを照らす光だった。
もしあのまま腐っていたら今頃どうなっていただろうと考えるだけで恐ろしい。フローラはエルマーの恩人であり、救世主であり、光そのものなのだ。
エルマーはフローラの登場から退場まで、あの時のことを鮮明に覚えている。
無駄な動きなく毅然とした態度で民を救っていく姿。エルマーの傷を癒した光。そして強くまっすぐで、慈愛に溢れた瞳。
そして思い出とは美化されるものである。
何か辛いことがあるたびにエルマーはフローラの姿を思い出した。何度も何度も頭の中で再生した。
その情景を思い出すたびに、エルマーの頭の中のフローラは自然と神格化した。
後光がさすようになり、自ら光を放つようになった。いつのまにか時折宙に浮いた。まるで王宮の豪華な一室の天井に描かれた天使。
現実のフローラがお酒を飲んで「ひゃっほーい」と騒いでいたころ、エルマーの頭の中のフローラはどうにも大変に神聖なものになっていた。
エルマーにとって、フローラは崇拝の対象。もはや女神であった。
エルマーは自室に戻るなり頭を抱えた。
「オイゲン、どうしよう! 大聖女様と婚姻だそうだ!」
最近の悩みは白髪だらけになってきたことだというオイゲンもまた、事故の時にフローラに救われた一人である。もっとも、オイゲンが救われたのはその身体や命であって、エルマーとは少し異なる。
ちなみにオイゲンの髪はもともと白に近い灰色だったので、白髪になったところで周りからしたら大差ない。
「よかったではありませんか。殿下はずっとフローラ様を想っていたでしょう」
「想ってたって、そんな、そういうことじゃないんだよ。彼女は、ほら、天から遣わされた身というか、なんていうか……知ってるだろ?」
「そんな人ならざる者みたいな言い方はどうかと思いますが」
実際にフローラは別に天から遣わされたわけでもなんでもない。努力と根性と、そしてわずかな才能でのし上がり、地に足をしっかりつけて生きている。エルマーの頭の中では翼さえ生えかねない姿になっているが、当然飛べるはずもない。
「そんなことを言いながら、嬉しそうな顔をしていらっしゃいますよ。どうしても嫌だというわけでもないのでしょう?」
「んんっ。嫌だなんて、そんなおこがましいことがどうして言えようか」
「嬉しいんですね、わかります。とりあえず、落ち着きましょうか」
オイゲンはさっとハーブティーを差し出す。エルマーのことをよくわかっている、できる従者である。
「俺は、どうしたらいい」
「どうしたらいいもなにも、王命なのですから殿下にもどうしようもないことではありませんか。それに私は殿下でよかったと思いますよ」
「俺でよかった?」
オイゲンはチラリと意味ありげな視線をエルマーに向ける。
「先の大聖女であらせられるイゾルデ様は、王弟殿下と結婚なされましたな」
それだけでエルマーには彼が何を言いたいのか、すぐにわかった。
王弟であるエルマーの叔父は大聖女と結婚したが、その関係が上手くいっていないことは周知の事実だ。オイゲンの身分で王弟を悪く言う事はできないが、思うところはあるのだろう。仮にエルマーがフローラとの婚約を辞退することができたとして、代わりに婚姻を結ぶ相手が王弟のようでないとも言い切れない。フローラがどのように扱われるのかわからない相手に託してもいいのかと、そう言っているのだ。
よくない。いいはずがない。
「フローラ様のお気持ちを測ることはできませんが、少なくとも殿下がフローラ様を無下に扱われるようなことはありませんでしょう」
「あるわけがないだろう!」
「それならば、どのようにすればフローラ様が日々を恙なくお過ごしになれるか、考えたらよいのではないでしょうか」
「なるほど……なかなか難題だな」
真面目な顔で悩みだしたエルマーに、オイゲンはそっとハーブティーを追加する。
「取り急ぎ、まずは教会でお会いになるときに、何をお話されるかを考えたらよいのではないかと思います」
至極真っ当な助言をもらい、エルマーは女神との会話を考えた。
「ど、どのようなものを食していらっしゃいますか、とかだろうか」
「まずは普通に自己紹介からなさるのがいいかと存じます」
「なるほど……」