8 事故翌日
馬車の事故の翌日、エルマーは自室で目を覚ました。
「お目覚めですか?」
その声を聞いて、意識がはっきりとした。
「……カルラか?」
「そうですよ。体調はいかがですか?」
そう聞かれて、のそりと起き上がってみる。まだ身体に少し怠さが残っているが、気分はスッキリしていた。
「俺は、問題ない。オイゲンを見てるんじゃなかったのか」
オイゲンはエルマーの従者で、「もういい年ですから」なんて自分では言うくせに爺扱いすると後が怖いベテランである。昨日の事故で大けがをしたため、フローラに言われた通り、数日間は安静を言い渡している。
そしてカルラはオイゲンの妻だ。夫婦でエルマーが幼い頃から仕えてくれている。
「そのオイゲンに、自分はお世話できないから代わりに殿下のところへ行け、と言われたのですよ。ちなみに彼は少し熱が出ているようでしたけれど、まぁ元気です。安静にしなければいけないことのほうが辛いようです」
カルラはどうしようもないというように肩を落とす。オイゲンは仕事中毒なところがあるのだ。
「聖女に安静にさせるように言われたんだ。なるべく休ませてくれ」
「えぇ、殿下がそうおっしゃってた、と言えば少しは聞く耳を持つでしょう。だけど、休むのは殿下もですよ」
「……俺は問題ない」
「主従そろってそんなことを言って。聖女様は殿下は問題ないから大丈夫だとでもおっしゃったの?」
フローラに「ご自身も大切に」と言われたのを思い出して、エルマーは苦い顔をする。
「まったく、馬車の事故と聞いたときには生きた心地がしませんでしたよ。どれだけ心配したと思ってるんですか。私はもういい歳なんですから、私の心臓を壊さないでくださいよ」
「……カルラは俺を心配してくれるんだな」
思わずボソッと呟くと、カルラは目を丸くした。
「当たり前じゃありませんか。私とオイゲンにとって大切な主ですからね」
カルラはふわりと笑う。幼い頃から世話をしてもらっていたオイゲンとカルラとは、主従関係だけではない絆がある。だからこそエルマーは二人に強く出られない。
「ところで、朝食は召し上がれそうですか?」
「あぁ、もらいたい」
「では用意してきますね」
カルラが出ていくと、エルマーは窓から外を眺めた。いつもであれば、学園に向かっている時間だが、数日は休む連絡をしてある。
エルマーは通常、午前中は学園に通い、午後は王族の一員として公務にあたっている。
……ということになっているが、実際は公務なんてほとんどしていない。
事故を報告したとき、王太子である兄は鼻で笑ったように言った。
「好きなだけ休むといい」
エルマーは誰からも必要とされていないと感じていた。そして実際にエルマーが休んでいたところで誰も困りはしないのだ。
そのことを改めて突きつけられたような気がして、エルマーは大きく溜息をついた。
「自業自得、だな……」
エルマーは少々難しい立場にいる。
エルマーには三人の兄王子と二人の姉王女がいるが、エルマーとは母が違う。その五人の兄姉たちは前王妃の子で、前王妃は五人目の子を産んで儚くなられた。王妃の座を不在のままにはできなかったため、王は公爵家の娘を迎えた。それがエルマーの母だ。
三人の兄は皆それなりに優秀だし、健康面でも問題はない。エルマーにも王位継承権はあるものの、よほどのことがなければ玉座が巡ってくることはない。エルマーは兄がいずれ王の座を継ぐものだと思っているし、国王である父も、現王妃である母もそう思っている。
だけど、母の出身の公爵家を中心に、あわよくば、と思っている貴族もいるのだ。
エルマーにはもちろん、兄を差し置いて自分が次期国王になってやろう、なんていう野心はない。兄を支える良き臣下になりたいと思っていた。だけどそのために努力すれば「国王の座を狙っているのではないか」と当の兄たちから警戒された。逆に目立たないようにすれば、今度は「王子なのに責任を果たしていない」と陰口を叩かれた。
何をしても否定された。
そんな日々を過ごし続けていたエルマーは、やさぐれて、荒れた。
もはや自分は生まれないほうがよかったんだろう。そんな風にさえ思い、自分の存在価値を見失った。
勉学はおろそかになり、学園には通っているものの王子らしからぬ成績を取っている。公務もやる気がなく適当。評判のあまりよくない連中とつるんでは街をうろつき、毎日遊んで過ごす。
そんなことを続ければ、いつのまにか信用はなくなっていった。当然批判も高まった。だけど、どうせちゃんとやろうがそうでなかろうが、批判されるんだろう?
エルマーは腐りかけていた。
馬車転倒事故があったのは、そんな時だった。
聖女のフローラは、すさんだエルマーの前に颯爽と現れた。
最初の印象は、大丈夫か? だった。歳はエルマーと同じくらいだろうか、まだ少女のようにさえ見えた。聖女様とは呼ばれていたが、こんな娘が一人でこの状況をなんとかできるとは思えなかった。
ハズレを引かされたか。
誰も気にかけていない王子であるエルマーの要請など、適当な奴でいいと送り出されたんだろう。そうに違いないと思った。
そして最初にエルマーの前に来たにも関わらず、エルマーを放置して御者のところへ行った。
こんな娘さえも自分を蔑ろにするのか。最初はそう思った。
だけど、そうではなかった。
『身分は関係ありません』
フローラは毅然とした態度で屈強な騎士に意見を述べた。普通の女性であれば、声を荒げただけでも怯えて震えるに違いない相手だ。そしてその意志を貫き、御者を救った。
(どうして自分が優先されるものだと思っていたのだろう)
どう見たって御者は今にも死にそうで、エルマーは大した怪我でもないというのに。
エルマーは自分のことばかりで、周りに気を配れていないことに気が付いて、急に恥ずかしくなった。王子であるからこそ、真っ先に状況の把握に努めて的確な指示を出さなければいけないというのに。
エルマーが本来やるべきだったそれをやったのは、小娘だと侮ったフローラだった。
聖女は特殊な立ち位置で、教会に守られてはいる。だけどそれは絶対的な後ろ盾ではない。王子であるエルマーが無礼だと訴えれば、その座から引き下ろされる可能性だってなくはない。
それにも関わらず、フローラは怯むことなく正しい判断をして、忠実に職務を全うした。
かっこよかった。
最高に、かっこよかった。
腐りかけのエルマーに、フローラのその姿は眩しすぎた。
フローラの出自まで知っているわけではないが、聖女になる者は身分の低い者が多いと聞く。それから聖女になるためには血のにじむ努力が必要だとも聞いたことがあった。
おそらくフローラもその例に漏れず、これだけの癒しをかけられるというのは必死に努力してきた結果なのだろう。そして実際にその能力を証明してみせた。
それに対して自分はどうか。王子という身分に生まれ最上の教育を受けながら、やるべきこともせず周りの評判ばかり気にして自暴自棄になりかけて。まるでいいところがないではないか。
まっすぐで強い瞳、凛とした姿に言動。そのどれもがエルマーの心に刺さった。
そしてフローラの癒しのあの温かな光が、エルマーの心まで浄化してくれたように感じた。
ガチャと扉が開いてカルラが朝食を持ってきたのを見て、エルマーはずいぶんと長いこと窓辺に佇んでいたのだと気が付いた。
「あら、休んでいなかったのですか?」
「ちょっと考え事をしていた」
「休むことも仕事ですよ」
カルラがテーブルに朝食を置く。エルマーがその席につくと、注いだばかりの紅茶が差し出された。
「あら、殿下。なんだか良い顔になられましたね」
「良い顔?」
「そうです。すっきりされたというか、なんというか。事故にあったばかりですのに、何か良いことでもございました?」
「……どうだろうか」
エルマーは小さく笑う。
食べ終わったら何から始めるべきだろうか。まずはサボってばかりだった勉強か。
そんなことを考えながら、エルマーはパンに手を伸ばした。
お読み下さりありがとうございます!
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