7 初めて会った日
この国の第四王子エルマーは、一度だけフローラに会ったことがある。
エルマーが十五歳だったその日、エルマーの乗っていた馬車の馬が暴れ、馬車が横転する事故があった。
当時馬車のボディの中にいたのはエルマーだけ。前で馬を操っていた御者一人と、車体の後ろに立って乗っていたエルマーの従者が一人、それぞれ投げ出されてしまった。
教会が近かったため、すぐに知らせを受けた聖女が来た。それがフローラだった。
「聖女様、こちらです」
騎乗で側を護衛していた騎士が真っ先にエルマーのところへフローラを連れてきた。エルマーは横転した衝撃で身体を打っていて、腕からは血が出ている。
フローラはエルマーを一瞥すると、ぐるりと辺りを見回した。そしてすぐにエルマーの前を離れると、御者が倒れている場所へ向かって治療を始めた。それに驚いて騎士が声を荒げる。
「なぜそちらへ行く!」
「こちらの方が重傷だからです」
「殿下が先だ。すぐに戻れ」
「お断りします。身分は関係ありません。重傷者から診ます」
「殿下を差し置いて平民を優先させるなど、許されることではないぞ!」
「貴族であろうと平民であろうと、命が一つであることに変わりはありません。もう一度言いますが、聖女は症状の重い者から診ます。聖女のやり方に従えないのであれば、どうぞ他をあたってください」
フローラは毅然とそう言い放つと、倒れている御者に声を掛け始めた。騎士が「なっ」と顔を赤くする。
エルマーは手を軽く上げて彼を制した。
「殿下」
「いい。たしかに、彼らの方がどう見ても重傷だ」
エルマーの怪我は、おそらく擦り傷と打撲程度だろう。腕に布を当てて血を軽く拭う。まだ血が出てはいるが、大きな怪我ではなさそうだ。
対して御者は意識を失っているし、後ろに立っていた従者は意識はあるものの起き上がれない。
フローラは御者を注意深く診て、癒しを掛けていく。フローラが手を当てた場所からほわっと小さな光が出た。そしてフローラはまた別の場所に手を当てて癒す。それを何度も繰り返していた。
エルマーの横では騎士がどこか苛立った様子でそれを眺めている。一方でエルマーは、その光景に目を奪われていた。
「あの光、美しいな。そう思わないか?」
「……はい。ですがあのように力を使われては、殿下まで持たないのではと心配です」
「俺の傷など、放っておけばいずれ治る。案じずともよい」
何度も癒しを使ったフローラが次に向かったのは、エルマーの従者であるオイゲンのところだった。彼は意識があったので、「殿下を先に」と動くこともできないくせに懇願している。それでもフローラがそうすることはなかった。
フローラがオイゲンを癒している間、エルマーはハッとして倒れた馬車の始末や代わりの迎えなどについて、指示を飛ばした。それが終わってフローラを見ると、ちょうど癒しを終えたところのようだった。
動けるようになったオイゲンがエルマーの方に移動しようとして、フローラに「死にますよ!」と言われている。エルマーはオイゲンに目で「そのまま動くな」と小さく合図を送った。
オイゲンが大人しくしているのを確認し、フローラがエルマーのところにやってくる。
「お待たせいたしました。傷を見せてください」
「いや、私は問題ない。ご苦労であった」
「いいえ、問題なくはありません。見せてください」
「だが、君はもう力をたくさん使ってくれた。無理をする必要はない。このくらいの傷ならば、何もせずともすぐに治る」
フローラの額には、軽く汗が滲んでいた。それを指摘しながら自分は大丈夫だからと言うと、「今日は暑いですから。あなたもですよ」とフローラは小さく笑った。エルマーが自分の額を撫でると、たしかにぺたっと手に汗がつく。
「小さな傷に見えても、そこから悪くなることもあるのです。聖女の力にも限りがありますから、重症者から診ると軽症者まで回らないこともあります。でも本当は、できることならば全員を治したいのです」
「しかし……」
なおも引き下がろうとするエルマーをフローラはまっすぐに見てきた。
「私の力はまだ残っています。仮に貴方の傷を治さずに悪化してしまったとして、そのとき私は力を尽くさなかったことを後悔するでしょう。私の聖女としての誇りのためにも、どうか見せてください」
エルマーだけのためではなくフローラのためでもあるのだと言われてしまえば断れない。
さぁ、とフローラに促されて、エルマーは血がまだ出ている腕を出した。フローラがその腕に手をかざすと、ほわっと一瞬だけ温かくなり、そして傷が塞がった。それで終わりとおもいきや、フローラはそのまま手をエルマーの身体にかざし、何か所かで癒しを使った。
「他に痛むところや気になるところはありますか?」
「いや、ない。かなり楽になった。御者たちの分もまとめて礼を言う。ありがとう」
エルマーが礼を述べると、フローラは一瞬きょとんとした顔をしたあと、一歩下がって膝を折った。貴族女性のするカーテシーと呼ばれるお辞儀と違い、聖女や修道女が相手に敬意を現わすときには膝を折って両手を前で合わせて組む。フローラはとても自然に、そして優雅にその姿勢をとった。
「無礼はお許し下さいませ。あなた様に女神のご加護がありますように」
「あぁ」
「それから、一点だけお願いがございます」
エルマーは少しだけ残念に思いながら、「なんだ?」と聞いた。フローラもまた、褒美かなにかを望むのかと思ったからだ。だけどフローラが望んだのは、そういうことではなかった。
「聖女の力は万能ではありません。私が癒しを贈りましたが、あくまでそれは自身の身体が自分を治そうとするのを補助をしただけのことです」
フローラは癒しの力について説明した。
大雑把に言うと、癒しとは外から特殊な力を加えることで、その者が回復するのを促すものであるということ。傷が塞がったように見えても、完全に治ったわけではないこと。すでに失われた血が戻るわけでもないということ。身体の中では現在も必死に修復している状況で、体力を使っているのだということ。
たしかに、傷は治り痛みはなくなったけれど、エルマーはどこか疲れた感じがしていた。
「特にあちらのお二方は重傷でした。動けるようになったからと無理をすれば、最悪死にかねません。どうか数日は安静にされますよう、ご配慮をお願いします」
「なるほど、わかった。そうしよう」
「それから、あなた様はかなり我慢強い方のようです。幸い骨には影響はなかったようですが、腰の打撲は大きいものに感じました」
エルマーは苦笑した。たしかに血の出ていた腕やすりむいていた足よりも、腰が痛かったのだ。
「さすが。聖女に嘘はつけないな」
「どうか無理をなさいませんように。ご自身も大切になさってください」
顔を上げて見えた彼女の紫の瞳は、とても澄んでいて美しく、そして強い意志が宿っていた。
それでは失礼いたします、と告げて、フローラは颯爽と去っていく。その後ろ姿も凛としていて、エルマーはしばらく彼女を眺めていた。
その日、エルマーはフローラに惚れた。