5 婚約
婚約を結ぶ日がやってきた。
そんな日でも朝のルーティンは変わらない。いつものように水場で洗濯をして、乾くかな、と空を見上げてから洗ったものを干す。
雨は降っていないものの、あいにくの曇天。まるでフローラの気持ちを表しているかのようだ。
「フローラ様、今日婚約なんですよね。おめでとうございます」
「あー、ありがとう、なのかな?」
近くで干していた聖女見習いたちが、きゃあきゃあと声を上げる。そんな彼女たちとフローラを、修道女や聖女たちが生温かく見ている。
『私は一生結婚せずに聖女の職務を全うします!』
そう高らかに宣言し続けてきたフローラは、どこか居心地が悪い。本当にそう思っていたんですよ、ですが状況が変わりましてね……と誰も求めていない弁解をしたくなる。
「王子殿下がこちらにいらっしゃるんですよね?」
「うん、なぜかそう」
結婚式は大聖堂で挙げるのが一般的だけれど、婚約は書類に署名するだけなのでどこでもできる。なのでフローラが王宮に行くものだと思っていた。それがなぜか王子のほうが教会に伺いますと言ってきたのだ。
いやいや殿下にご足労いただくのは……、と返してみたものの、やはり王子がきてくれるということで、今回は教会になった。
まだ結婚に夢を抱いている聖女見習いたちは、王子の顔を見られるかもしれないとどこか浮ついている。
洗濯物を干し終えて部屋に戻ると、何着かある大聖女の服の中で一番綺麗なものを選んだ。といっても、いつもの服である。お相手の第四王子と顔を合わせる日であり、婚約という大事な日なのに普段着とも言える服なのは失礼な気もするが、これが大聖女の正装なのだ。
着替えながら、修道院で聞いたいろんな話を思い出す。
アマーリアたちもそうだし、命からがら駆け込んできた妊婦さんも大変な思いをしていた。ちなみに無事に出産したあの女性はそのまま修道院に留まり、自分の子と一緒に孤児院の子供たちの世話をしている。彼女もまた貴族の夫人だったらしく、フローラは貴族の結婚って怖い、と思っている。
結婚が不幸と同義であるはずがないということは理解しているけれど、修道院には結婚に対する夢を壊す実例がそろいすぎている。
そして大聖女イゾルデの言葉も思い出す。
(期待しない、望まない、夢を見ない)
もはや期待も夢もないけれど、充分に理解しているはずのことをもう一度心の中で唱える。
(私は平民。お相手は王子殿下。身の程を弁えること。よし!)
着替えを終え、身だしなみを整えると婚約の場である小聖堂へと向かった。
小聖堂には数名の神官と聖女がいた。フローラが入るのとほぼ同時に、イゾルデが夫である王弟と共にやってきた。婚約の立会人なのだ。フローラは挨拶を交わすと下がり、少し離れたところから二人をそっと見た。
二人が並んでいるところを見る機会は多くないが、この場限りで言うならばそれほど仲が悪いようには見えない。時折言葉を交わして、軽く笑い合ったりもしている。どこか王弟がイゾルデに気を使っているようにも見えた。
(私もこういう感じになれたらいいのかな)
普段は別のところでそれぞれ過ごし、必要なときにはこんなふうに夫妻として並ぶ。心の中はどうであれ、そうして役目を果たせたらいいのかもしれない。
もちろん、お相手の王子がどう考えているのかも重要だ。フローラにもできる限り王子の意向に合わせようという意志はある。
イゾルデ側の話を聞いているから王弟を可哀想だとは思わないし、むしろ尊敬してやまないイゾルデになんてことをしてくれたんだと憤慨する気持ちがあるが、共に未来を歩むと思っていた相手との婚約を強制的に解消されて大聖女と結婚せざるを得なかった彼にも、思うところはいろいろあったんだろうとは思う。
フローラは第四王子に負い目を感じている。
王家という国の中で最も高貴な身分に生まれ、本来ならばどんなご令嬢でもよりどりみどりだったはずだ。それがフローラが大聖女になったからと、強制的に平民と結婚させられる。
フローラは目標としていた大聖女の地位についたことに誇りと喜びがあるが、王子は完全にとばっちりである。これでフローラが絶世の美女だったりでもすれば少しは慰められようが、残念ながらそういうわけでもない。
何度目になるかわからない小さな溜息をこぼしたとき、扉が開いて王子とその側近たちが入ってきた。
一瞬目が合って、フローラは慌てて目を伏せる。挨拶もなしにいきなり高貴な方をじろじろと見るのは不敬だ。
「そろったようなので、始めるとしよう」
立会人である王弟がそう言うと、皆の背筋が伸びた。王弟とイゾルデが並ぶ前には台があり、その上にはすでに婚約の書類が置かれている。
「第四王子、エルマー」
王弟に呼ばれた王子が、台を挟んで王弟とイゾルデの向かいに立つ。
ペンを取った王子は、少しの間その前で動きを止めた。そして長く息を吐くと、意を決したようにペンを動かす。その姿はどこか怒りを込めているかのようにも見えた。
(そりゃあ不本意だよなぁ)
署名した時点で婚約に同意したとみなされる。本当は署名などしたくないに違いない、とフローラは思ったが、王命なのだ、どうしようもない。
「続いて、大聖女、フローラ」
王子がその場から離れると、フローラが呼ばれた。台の前に立つと、イゾルデがフローラを励ますように、ほんのわずかに顔を緩めた。
書類に目を落とす。王子の署名は流麗だったけれど、わずかに乱れているようにも感じられた。
ペンを取り、指定の場所にフローラがさらさらと署名する。そしてそっとペンを置くと、フローラは元の位置に戻った。
「ここに第四王子エルマーと大聖女フローラの婚約が成立したことを、王の代理として宣言する」
王弟の声が小聖堂に響く。
ただ静かに、なんともあっけなく、婚約は結ばれた。