26 伯爵領
馬車は川沿いの道を進む。のどかな田舎だ。羊や牛がのんびりと草を食みながら、通る馬車を見つめてくる。時折小さな家や小屋が見えるので人はいるはずだけれど、見かけない。
フローラはぼんやりと窓の外を眺めていた。エルマーも同じように見ている。馬車の旅の最初の頃は何か話さないといけないだろうか、もしくは話さずに静かにしているべきだろうか、なんて考えて気を使いもしたけれど、今は静かな時間が続いても別に気にならない。
ずいぶん慣れてしまったのだな、とフローラは思った。
王子という本来関わるはずのなかった身分の御人と同じ空間にいるということに、良いのか悪いのかわからないけれど、慣れてしまった。
窓からそっと視線をエルマーに移す。まつ毛が長い、なんてことを思った。
フローラは結婚するつもりがなかったから、そういう対象として男性を見たことがなかったし、美醜で考えたこともほとんどなかった。
そのフローラから見て、エルマーは整った顔をしていると思う。あくまでフローラから見て、なので、実際どういう評価なのかはわからない。
ふと窓の外を見ていたエルマーが顔を上げてフローラを見た。フローラはエルマーを見ていたので、バチッと目が合う。
「どうかしたのか?」
「あ、いえ。ええと、もうすぐ街に着くみたいですね」
綺麗な顔だなと思っていました、なんて言えるはずもなく、フローラはごまかして笑う。エルマーはパチパチと瞬きをしたあと、ニヤッと笑った。
「なんだ、俺に見惚れていたのかと思ったのに」
「えっ?」
「違うのか?」
「ちが……」
違うと言ってしまってよいものか。いやよくない気がする。違いますということは、見惚れてなどいませんよそんなはずがないでしょう、ということであって、あなたの顔は見惚れるに値しませんよ、といっているようでもあって、要するに、不敬。
「ちが……わなくないです。そうです、見惚れていました! 綺麗な顔で、ええと、素敵だなって、そう思ってました!」
慌てて肯定する。危なかった。
そして勢いよく言い切ってから、フローラは顔に熱が集まるのを感じた。
見惚れていた。
自分でそう言って、本当にそうかもしれないと思った。
エルマーはクッと笑ったと思ったら窓の外に目を向け、あっ、と声を上げた。
「壁が見えてきた」
「か、壁ですか?」
「そう。領都の壁。ほらあそこ」
エルマーが話題を変えてくれたので、全力で乗っかる。
フローラが窓を覗くと、たしかに石造りと思われる壁が見えた。
「けっこう高さがあるのですね」
ここは伯爵領の領地だ。そしてこの中がその領都で、ぐるっと壁に囲まれた造りになっていることは知識としてはもっている。
この地は隣国と接しているので、国家間の仲が悪いときには攻め込まれる恐れがあったこと、それから隣国との間にある森や山に魔獣が発生しやすい環境だったことから、中で暮らす領民が守られるように壁が築かれたそうだ。そしてその中で発展してきた都市だ。
壁伝いに進むと、門が現れた。その前で一度止まり、そこに構えていた守衛とやり取りをしたのちに中に入る。通行証を持っているので、問題なく通れたようだ。
門を通過すると、景色が一気に変わった。
綺麗に整えられた道。それに沿うように高さのある建物が並んでいる。大通り沿いだからか、一階部分はお店になっているところが多いようだ。人の姿も多数見える。
「うわあ、賑やかな街ですね」
「そうだな」
「エルマー様は来たことがあるのですか?」
「いや。伯爵にお会いしたことはあるが、この場所にくるのは初めてだ。思っていたよりも大きな街なのだな。壁に囲われた領都だと聞いていたから、もっとこじんまりとしているのかと想像していた」
いままで延々と続く田舎風景だったからか、窓から外を眺めるだけでも楽しい。
しばらく進んだ大通りの先に、教会らしき建物が見えた。その土地によって差はあるものの、教会はどこでも教会だとわかる形をしている。大きそうな雰囲気だ。フローラは今日は教会には行かない予定なのに、なぜかわくわくしてきた。
騎士たちは宿で馬車を降り、エルマーとフローラ、それぞれの護衛と隊長は領主の城に入った。立派な城だ。フローラが王宮を見慣れていないただの平民だったなら、これが国の城だと言われても納得しただろう。
馬車がとまったところには、ずらっと使用人らしき人たちが並んでいた。エルマーが馬車から先に降り、フローラに手を出してくれる。フローラがその手を取って降りると、使用人たちがザッと一斉に頭を下げた。
フローラは内心でビビりながら、言動を大聖女モードに切り替える。平民フローラでは切り抜けられそうにない。
壮年の男性が一歩進み出て、エルマーの前で礼をとった。
「遠路はるばるありがとうございます、エルマー殿下、大聖女様」
「出迎え感謝します、伯爵」
「早速ですが、中へどうぞ」
中でお茶を飲んで雑談する時間がほんの少しだけ設けられ、それからすぐに隊長と現地の騎士を交えて現状を確認する。
「巨大化したアグラが一体確認されています」
伯爵領の騎士団の副団長だという騎士がそう告げると、雰囲気は一気に張り詰めたものに変わった。
アグラとは猫のような見た目の魔獣だ。瘴気を浴びない状態であれば、大きさも見た目もただの可愛い猫に近い。雑食だが臆病な性格なので自分よりも大きな動物にわざわざ近寄ってくることもなく、こちらから攻撃でもしない限り、襲ってくることはない。
ただこの魔獣は瘴気を浴びると大型化するという性質を持っていて、大型になるに従って性格も荒く、狂暴になる。
「どの程度ですか?」
「最大級かと」
「人への被害は?」
「幸い今のところ報告されていません」
人よりも大きくなったのであれば、人は捕食対象にもなりえる。狂暴化した大型魔獣ならば領都を囲う壁くらい壊せるだろう。
「聖女様によれば、瘴気が強く感じられる場所にいるそうです。そこが瘴気の発生源かもしれません」
「瘴気が力になると知って、発生する場所を守っているのか」
「その可能性もあるかと思われます。放置すればさらに巨大化する可能性もあるので、速やかに退治したいところです」
王都から一緒に来た隊長と、こちらの副団長が中心となって作戦を練っていく。ここでフローラにできることは、どのくらいの怪我人が出そうか予測を立てるくらいだ。
話し合いが終わると、隊長は宿へ戻っていった。これから宿に残った騎士たちとまた話し合うのだろう。
エルマーとフローラは、今日はこの伯爵邸に泊まることになっているらしい。フローラは宿でよかったのに、たぶんエルマーがいるからフローラもついでに招待されたのだ。
案内された客間は貴族仕様に整えられた部屋だった。
食事は部屋でとお願いしたのでどうにかなったが、この貴族仕様というものはどうにも落ち着かない。
日も暮れたころ、フローラは風に当たりたくなって、部屋についているバルコニーに出た。かなりぼんやりとした月が見える。空気が澄んでいないらしい。
明日から現地か、と思っていると、ガチャと音がして隣の部屋のバルコニーのドアが開いた。少し身構えながらそちらを見る。
「エルマー様?」
「音がしたから出てみたんだけど、やっぱりフローラだった。どうかしたのか」
「なんだか落ち着かなくて、風に当たりたくなったのです」
そういえば隣の部屋はエルマーだった、と思い出す。
「明日から現場だものな。フローラでも落ち着かない気分になるのか」
「あ、いえ、それはそんなことはないです。部屋がなんともお貴族様の部屋って感じだったので、慣れなくて」
「ああ、そっちか」
エルマーがクッと笑う。
魔獣が怖くないわけではないが、フローラが戦うわけではない。フローラはできる限りのことをするだけ。それはいつどこでも変わらない。
だけど少しは気構えているところもあったのかもしれない。エルマーの声を聞いたら肩の力が抜けた気がした。
「エルマー様はこういう部屋にも慣れていらっしゃるんでしょうね」
「まあ、そういう場所で育ったからな」
その言い方にどこか哀しさを感じさせるような雰囲気があって、フローラは口を噤む。エルマーと話していれば、王子だからといってなんでも思い通りになる生活ではなかったということはすぐ分かる。逆にいろんな物を背負って生きていかなければならないのは、真面目なエルマーにはきっと重い。
「落ち着かないかもしれないけど、悪いことばかりじゃないぞ。今までの宿よりもベッドが大きいしふかふかだ。ぐっすり眠って明日は寝坊してしまうかもしれない」
エルマーはおどけたように言う。
フローラはふふと笑った。
「だから早めに寝たほうがいい」
「そうですね。では、そろそろ戻ります」
フローラのいる場所からエルマーの場所まで、五歩分くらいの空間がある。
結婚したらその空間は埋まるのだろうかと、フローラはふと思った。隣に並んで風に当たって、同じ部屋に戻る生活。今はまだ想像できないけれど、そうなるのだろうか。
おやすみなさいと挨拶をして、フローラは部屋に戻った。
たしかにベッドはふかふかで、落ち着かないと思っていたはずなのにフローラはすぐに眠りに落ちた。




