2 先輩大聖女の結婚
「溜息が出てるよ」
フローラが水場で洗濯物をざぶざぶしていると、トンと籠を置く音がした。そして「よいしょ」という声と共に同じ服を着た女性が隣にしゃがみこんでくる。
大聖女イゾルデ。
フローラの前に大聖女になった偉大な先輩であり、フローラが憧れ、目標にしている女性であり、そして聖女のいろはを教えてくれた師のような人でもある。現在十八歳のフローラのちょうど倍の年齢。まだ年配というほどの年齢でもないのに、最近何をするにも「よいしょ」と言ってしまうことが悩みだという。
「大聖女になったその日に吞んだくれて、ひゃっほーい、とか叫んでた人とは別人のようじゃないか」
「忘れてください」
「無理」
ククッと笑いながらイゾルデは籠から一枚衣服を出し、水につけた。教会ではどんなに偉くなろうとも、自分のことはできる限り自分でやるのがルールだ。とはいっても大聖女ともなれば忙しいので、周りに頼むことも多い。イゾルデにとって、今日は少し余裕のある日らしい。
フローラはお酒が好きだ。
嫌なことがあった時には飲んで散々愚痴を言う。一人の時もあれば、善意の聖女仲間につき合ってもらうこともある。
良いことがあった時にはちょっといいお酒を飲んで楽しくしゃべり倒す。これもまた一人の時もあれば、偶然居合わせてしまった聖女仲間と一緒のこともある。
どうやらフローラは飲むとひたすらしゃべるタイプらしい。そしてお酒は好きだが強くはなく、すぐに寝てしまう。
ちなみにこの国では飲酒に年齢制限はない。ただ、十五歳まではなるべく控えるように、という通達は出ている。
「まぁしょうがないか。婚約と顔合わせ、もうすぐだったな」
「そうなんです」
「フローラは結婚する気はないって言ってたもんね。結婚するために聖女になろうとする見習いも多い中で、聖女としては素晴らしい心得だと思ってたけど」
イゾルデは苦笑する。
この国では十歳になると聖魔力があるかどうか調べられ、あると認められた者は教会に入る。強制ではないが、聖女になるのは名誉なことなので、ほとんどが入ることを希望する。
教会の中では完全なる実力主義だ。元の身分に関係なく毎日下働きをしつつ、勉強と訓練を重ねる目まぐるしい日々を送る。そのため特にご令嬢やお嬢様と呼ばれていたような子たちは、女神様の試験を受ける前に脱落することも少なくない。
そうして努力を重ねても女神様に認められて聖女になれるのは十人から二十人に一人。一年に五人程度しかいない。非常に狭き門だ。
そしてさらにその中で実力があると女神様に認められた者が大聖女になる。こちらは十年から二十年に一人しか現れない。
国にとっても、大聖女は非常に貴重な存在だ。だから大聖女になった者は王家もしくはそれに準ずる者との結婚が決められている。
王族の一員とすることで囲い込み、今後とも国のために働いてもらうためだ。
教会側にもメリットがある。大聖女を王族にすることで王家との繋がりを得ること、それと同時に教会の威信を上げること。ついでに大聖女になれば元平民でも王族に嫁げるんですよ、みなさん頑張りましょうね、というアピールも兼ねている。
実際に聖女見習いの中には良い縁談を期待して努力している人も多いので、大聖女になったフローラには羨望の眼差しが集まった。
(そんなにいいもんじゃないと思うんだけど)
大聖女という地位やフローラの実力に対しての羨望の眼差しならば嬉しいけれど、降ってわいたような王族との結婚を羨まれても嬉しくはない。
「別に私たちは王家に囲い込まれなくたって逃げたりしないし、王族にならなくたってちゃんと仕事もするのにね」
「歴史上ではそうでなかったことも多々あったみたいですから、仕方がないとはわかっているのですけど……」
大聖女の称号を得ながらその力を充分に使わなかったり、国外に出る者も過去にはいたらしい。それは当時の教会や聖女の地位が低かったり、戦時下であったりと事情はあったようだけれど、国としては損失だ。それが元で大聖女は王族に強制的に取り込まれるようになったのが始まりだという。
フローラは慣習の通り、王族との婚約が決まった。相手は第四王子だそうだ。
はっきり言って気が重い。
「その様子だと婚約を喜んでいるようには見えないけれど、一応言っておくわ。結婚に夢を見ては駄目。相手に愛してもらえると期待してはいけない」
洗濯物をバシバシと叩く力にやけに気持ちがこもっている。
ここで「あなたは期待してたんですか?」なんて野暮なことは聞いてはいけない。何度もその話は聞いているけれど、黙って素直に頷くのみだ。
イゾルデも大聖女になり、王族と結婚した。相手は当時の第ニ王子で、現在の王弟だ。
だけどそれは、幸せな結婚ではなかった。
結婚を機に王弟の離宮に移り住んだものの、王弟はイゾルデに対して常に不機嫌だったという。なんで俺がお前なんかと結婚しなきゃならないんだ、下級貴族のくせに。そんなこともよく言われた。
最低限の世話はされたものの、主人である王弟がイゾルデを邪険に扱うので、使用人たちもイゾルデを女主人と見ることはできなかったらしい。悪意を持って接せられることはなかったとはいえ、腫れ物に触るかのような感じだったという。イゾルデは離宮で孤立していた。
それでも若かったイゾルデは王弟に尽くそうとあれやこれやと世話を焼いてみたり、いろいろ頑張ったらしい。そのたびに心無い言葉を浴びせられ、心折れたのだという。
なんともひどいと思える王弟だが、彼にも同情の余地が全くないわけではない。
彼には婚約者がいた。政略的な婚約ではあったものの、相手の女性とは仲がよく、将来の話もよくしていたという。もうすぐ結婚だというそんな矢先、イゾルデが大聖女になった。
当時、未婚の王族男性は彼しかいなかった。婚約は強制的に解消され、イゾルデとの婚約が発表された。もちろん彼は抗議したが、聞き入れられることはなかった。
努力を重ねて大聖女になったイゾルデに悪いところなどない。だけどタイミングは悪かった。
だからといって大聖女を虐げていい理由には全くならないのだが、王弟の憎しみはイゾルデに向かってしまったらしい。貴重な大聖女の称号さえも、当時の王弟から見れば迷惑なもの。どうして大聖女になどなったのだ、大聖女にならなければ俺はお前と結婚しなくてもよかったのに、などと言われる始末。
最初から居場所のなかった王弟の離宮だが、王弟が愛妾を囲うようになってからはさらに居づらくなり、イゾルデは教会に戻ってきた。
以降ずっとイゾルデは教会で暮らしているが、離縁しているわけではない。国王の許可が出ないからだ。イゾルデの肩書は今も大聖女であり、王弟夫人である。
なお、事情がどうであれ政略結婚の意味を考えれば、王弟は大聖女を大切にしなければならなかった。それなのにイゾルデを追い出したことで、彼は立場が悪くなったらしい。一時期戻ってほしいと必死にアピールしていたようだが、当然イゾルデは現在に至るまで頷いていない。
「相手が王子だろうがなんだろうが、いい生活ができるとは思わないこと」
「はい」
「まったく、貴族なんてみんなしょーもないのよ。自分のことしか考えちゃいないんだから。聖女なんて便利な奴隷だとでも思っているのよ。私のことを罵っておいて、何かあると呼び出すんだから」
ここで「あなたも元から貴族でしょうが」なんて言っちゃいけない。黙って頷くのみだ。
大聖女のイゾルデは男爵家の出身だ。貴族の中でいえば末端なのかもしれないが、平民のフローラからしたら立派なお貴族様。それでも高位貴族からは元の身分を理由に蔑まれたりする。
パンッとイゾルデは布を洗濯棒で叩きつけた。びちゃっと軽く水が飛んでくる。
それから彼女は洗濯物をぎゅっと絞り、溜息を吐いた。
「特にあなたは平民なのだから、身の程を弁えるのよ。大聖女になったからといって、自分が偉くなったとは思わないこと。華やかなで幸せな貴族の生活ができると思わないこと」
「思っていませんよ」
「……でしょうね。私みたいにずっとここで過ごしたって全然いいの。教会での生活も悪くないでしょう?」
イゾルデは一瞬だけ切なそうな顔をして、洗った洗濯物を籠に入れた。いつの間にか終わっている。フローラの方が先に来ていたはずなのに、追い抜かれてしまった。早い。
「とにかく、期待しない、望まない、夢を見ない。それから必要以上に関わらない。覚えておきなさい。だけど……良い人だといいわね。私、言ってること矛盾してるね」
イゾルデはフッと弱く笑って洗い終わった洗濯物を籠に入れ「よいしょ」と立ち上がり、先に干場へ向かう。フローラはまだ残っていた洗濯物を手早く洗い、空を見上げた。雲がゆっくり流れている。
(まさか自分が王子様と結婚することになるとはねぇ)
フローラは心の中でそう呟いて、もう一度空に向かって溜息を吐いた。