18 フローラの悩み
「フローラ?……フローラ」
呼ばれる声が聞こえてハッと顔を上げると、イゾルデがフローラを覗き込んでいた。
「どうしたの。珍しくぼーっとしてるね。体調でも悪い?」
今は師でもあるイゾルデの部屋で癒しについての議論をしている。症状別にどのように癒しをかけるのが効果的か、という話のはずだった。
聖女たちは、日々訓練を重ね、こうして研究したり勉強して常に向上させる努力をしている。それはいくら歳を重ねても大聖女になっても同じことで、ゴールというものはない。
フローラは見習いとして教会に入ってからこれまで、聖女の職務に命をかけてきた。いつだってそれが一番重要だった。それなのに、疲れているわけでも体調が悪いわけでもないのに、違う事を考えてしまうなんて。
「大丈夫です。すみません」
フローラが深呼吸して集中し直そうとすると、イゾルデがパタンと参考に見ていた本を閉じた。
「何考えてたの」
「すみません」
「怒っているわけじゃないのよ。フローラはいつも、やりすぎなくらいに聖女業務については真面目だもの。そのフローラが気もそぞろになるなんて、なにか原因があるはずでしょう」
イゾルデは「今日は終了」と言って伸びをすると、本を本棚に戻してから自分でお茶を入れにいった。ポットに残っていたお茶をカップ二つに注ぎ、フローラの前に一つ置く。
「もうぬるくなってるけど。あとこれ」
「マドレーヌ?」
「そう。ヴォルフ様のところでもらってきた。他の子の分はないから、内緒だよ」
ふふっ、と笑いながら、イゾルデはマドレーヌを一口かじった。フローラもお礼を言って口に入れる。ふわっとバターの良い香りがした。
最近フローラは少しおかしい。ふとした瞬間にエルマーのことを考えてしまうのだ。今だって、この前一緒にマドレーヌを食べた時のことを思い出した。業務中は集中しているはずだったのに、先程も考えてしまっていた。
「エルマー殿下と上手くいっていないの?」
イゾルデに聞かれて、思わず首を思いっきり横に振る。なにをもってして上手くいっているというのかわからないけれど、険悪な雰囲気になることはない。嫌だと思うことも全くない。でもだからこそ困っている。
平民のくせにと罵られたなら、結婚だけはしてもきっと教会で今まで通り過ごしただろう。だけどエルマーはずっとフローラを尊重してくれる。
「じゃあ、殿下のこと、好きになった?」
「えっ……好き?」
好きってどういうことだろう。よくわからない。
首を傾げていると、イゾルデが小さく息を吐いた。
「好きかはわからないけれど嫌いではない、って感じかしら。一緒に出かけたり、食事をしたりするのが嫌ではないのでしょう?」
「嫌では全然ないです」
「だよね。だってフローラ、エルマー殿下と会う前はなんかそわそわしてるし、戻ってからは寂しそうにしてるし、でもなんだか楽しそうだし」
「えっ」
「可愛いなぁって、他の聖女たちとも話してたの」
全く気が付いていなかったことを言われて目を丸くすると、イゾルデがニヤリと笑った。それからイゾルデはまたマドレーヌをかじってお茶を飲んだ。そして大きく息を吐いた。
「フローラ、ごめんね」
「何がですか?」
「私がたくさん脅してしまったから。だからきっと、本当はエルマー殿下を好きになりたいのに、どこかで自分の気持ちに歯止めをかけているのかもしれない。それでどうしていいかわからないのかなって思ったの」
「好きになりたい?」
イゾルデは小さく頷く。
「言い訳をすると、私はフローラに私のように傷ついてほしくなかったのよ。知っての通り、私はヴォルフ様とは上手くいかなかったでしょう。フローラとエルマー殿下も平民と王族だから、同じようになってしまうのではないかって」
だから期待しすぎないように言ったつもりだった、とイゾルデは言った。イゾルデはヴォルフと結婚することになったとき、少しは期待していたそうだ。結婚するのならば相手を好きになるものだとも思ったらしい。
「実際はいろんな意味で好きになる暇もなかったけどね。だけどそれはそれ。フローラとエルマー殿下は、私とヴォルフ様とは違うもの」
エルマーのことは、嫌じゃない。それどころか好ましく思っているのだと思う。一緒にいるのは楽しい。だけど、いつまでそうしていられるだろう。今はエルマーがすごく気を使ってくれていて、それで成り立っている関係だ。エルマーは王子で、フローラは所詮は平民。エルマーの考え一つで簡単に崩れる。
「私は結婚が怖いのかもしれません。修道院でもいろいろ聞きますから」
「あぁ、あちらには、本当にいろんな人がいるからね……」
「実際に見てきましたしね……」
「だよね。ここにいると、それが通常とまでは思わなくても、かなりの確率でそうなるものだと思えてくるよね」
「そうですね」
苦笑し合う。イゾルデもフローラも他の貴族の結婚事情に詳しくない。だからこそ、修道院に逃げてくる女性たちの話が普通であるかのように錯覚してしまう。
「フローラはエルマー殿下のことを信じたいんじゃない? 修道院で聞いたような人じゃないって、ヴォルフ様のような人でもないって」
「信じたい……そうかもしれません」
「フローラ、貴女には戻ってくる場所があるのよ。どうしても辛くなったら、ここに逃げてくればいい」
「はい」
「だから、飛び込んでみてもいいんじゃない? 私が言えることじゃないし、私にはわからないことだけれど、エルマー殿下は受け止めてくれる方かもしれないし、信頼を裏切らない方かもしれない」
ヴォルフ様とは違ってね、とイゾルデは笑った。




