17 修道女の三人と
修道院の一室で、フローラは貴族女性のお辞儀の仕方、カーテシーというやつを学んでいた。
先生は元貴族夫人のヨハンナ。同じく元貴族夫人のアマーリアと元侯爵令嬢のクラウディアが、同じ部屋の中で縫い物をしながらたまに口出し……アドバイスをくれる。
フローラは最近こうして時間を見つけては、貴族の世界について教えてもらっている。
「背筋は伸ばしたまま、ぐらついたりしないように。もう一度」
聖女の礼の仕方と貴族女性のそれは違う。どこか似ているので簡単だと思っていたら、そうでもなかった。軽く会釈をする程度のお辞儀であればそんなに難しくはないのだが、時と場合によってはゆっくり深々と相手に礼を取ることがあるらしい。
足をゆっくり曲げるというのはなかなかの筋肉を使う。何度目かの練習で、もう足がプルプル言っている。
「もうちょっと腰を落として」
「いや無理ですよ」
「……って思ったとしても、そういう顔はしてはダメです。常ににこやかに、苦しいことを悟られない」
これ以上足に負担が掛かったら倒れるって。倒れたら敬意を示すどころか逆効果じゃない、と思いながらも何とか笑顔を作ってヨハンナに向けてみると、彼女は顔を引きつらせてしまった。
「わかりました、ちょっと休憩にしましょう」
別に休憩をねだったわけではなかったが、そういう顔だったらしい。貴族女性への道は簡単ではないようだ。
「お茶、用意しますね」
「大聖女様がやることじゃないでしょう。わたくしが入れますわ」
元ご令嬢がやることでもないと思うけれど、クラウディアのほうが動くのが早かったので任せることにした。修道女の服を直していたアマーリアも手を止めて同じテーブルにつく。
「それにしてもフローラさん、ずいぶん頑張っているわね。殿下に勉強するように言われたの?」
「いいえ、そういうわけじゃないんです」
「それならどうして?」
アマーリアが不思議そうな顔をする。
四人分のお茶を入れてくれたクラウディアがフローラの前にそっと置く。カップがお皿に乗せられているところからして、お茶のマナー通りに飲まないと取り囲んでいる三人の先生方から注意されるだろう。
最後にクラウディアは自分の分のお茶を置き、席に着いてフローラを見た。
「殿下といずれ結婚しても、王子妃としての働きを期待されているわけではないのでしょう? 社交界で活動するわけでもないのなら、そんなに頑張らなくてもいいのではなくて?」
フローラにもどうしてだか分からなかった。
今までだったら聖女の仕事の合間にも、聖女業務に関する勉強や訓練をしていた。読む本も聖女関係のものが多かった。聖女としての技術を磨くことが何より優先だった。
それなのに今はこうして時間があればアマーリアたちにマナーを教わり、貴族の常識の本を読んでいる。
「うーん、必要だと思ったから、でしょうか」
エルマーと婚約して、半年が過ぎた。
エルマーは半年経っても変わらず丁寧で、平民に過ぎないフローラを気遣ってくれる。
変わったことといえば、いろんな話をして少し打ち解けたこと。それから呼び方くらいだろうか。しばらく大聖女様と呼ばれていたが、王子から様付けで呼ばれるのは落ち着かないと話してから、フローラさん、になり、最近ようやく、フローラ、とだけ呼ばれるようになった。
彼からもエルマーと呼べと言われたけれど、エルマー様で勘弁してもらっている。王子を呼び捨ては無理だ。他の人に聞かれでもしたら捕まってしまう。
コンサートの次は観劇にしよう、と言ったエルマーは、どんな種類の劇がいいか聞いてくれて、行く前には本当に服を贈ってくれた。恐縮するフローラには「自分がそうしたいだけだから」と言ってくれた。
半年の間、定期的にエルマーの離宮で食事をした。最初はマナーなど気にせず好きに食べてほしいと言われ、フローラが気にしないように、ということを気にしてくれているんだな、という状況だった。だけど少しずつ皿数が増え、カトラリーが増え、順番に出てくるようになった。
さすがにフローラにも、マナーを覚えさせようとしているんだろう、というのがわかった。
一度マナーの先生をつけたほうがいいか、と聞かれたこともある。結婚してからも王家や貴族の夫人といった役割を求めているわけではありません、と説明した上で、それでも必要ならば呼びます、と。
フローラはやんわりと断った。フローラにとっては聖女業務がなにより大事で、それと平行して先生について学ぶ時間を定期的に確保するのが難しかったからだ。それに、修道院には適任の先生が大勢いた。空いた時間に誰かにお願いして教わるほうが都合がよかった。
それ以来、エルマーがマナーだ常識だと言ってくることはない。負担にならないようにしてくれているのだろう。だけど、本当はある程度は貴族社会の常識を知っていてほしいと思っているはずだ。
「本当は、結婚はすることになっても、聖女でさえいられればいいと思っていたんです。でもやっぱり少しは貴族の常識も知らないと駄目かなって」
エルマーにとっても不本意な政略結婚だと思っていた。だから迷惑をかけないようにひっそりと教会で聖女を続けようとしていた。だけどエルマーは最初から一貫して、フローラを迎え入れるつもりでいる。
フローラがいないほうが都合がいいだろうと思っていたのに、いつか一緒にお酒を飲める日が楽しみだと、そう言ってくれたのだ。
エルマーがこの先もそのつもりでいるのならば、フローラもどこかで覚悟を決めなければいけない。
フローラが今のままなにもできなくて平民丸出し状態のまま嫁いだら、きっとエルマーに迷惑がかかる。今のフローラがエルマーの隣にいたら、エルマーが恥をかくことになる。
「フローラさん、殿下に馬鹿にされたり、もしくは怒られたりしていませんか? そのために無理しているのではありませんか?」
ヨハンナが心配そうに聞いてくる。ヨハンナは元夫に暴言を吐かれ続けた過去があるので、フローラが我慢しているのではないかと思ったらしい。
「それはないです。エルマー様は私ができなくても馬鹿にしたりはしませんし、怒っているところも見たことがないです。いつも優しいです」
そう、優しいのだ。だから申し訳なくなるのかもしれない。
そんなことを思っていると、クラウディアがカチャと音を立てて飲んでいたお茶のカップを皿に置いた。そしてうふふと上品に笑った。
「あら、わたくしたち、もしかして惚気られました?」
「まあ、そういうことですの?」
三人が一気に顔を明るくしてフローラを覗き込んだ。フローラは首を傾げる。
「そういうことって?」
「要するに、上手くいっているんでしょう、ってこと」
「えっ?」
上手くいっている?
そうなのだろうか。フローラにはよくわからない。なにせ一般的な婚約者同士というものを知らない。そしてどう考えてもエルマーとフローラは、その一般的な婚約者同士というやつではないし、そうなることもできないと思っている。
フローラが混乱していると、アマーリアがニヤッとしていた顔を引っ込めて、軽く咳払いをした。
「フローラさん、油断してはいけないわ。いくら優しかったとしても、男の人は結婚したら豹変するのよ。私の元夫もそうだったもの」
「そうそう、私のところもそうです。婚約中はとても優しくていい人だと思っていたのに、結婚したら変わってしまったわ」
ヨハンナも同調する。
一方で結婚未経験のクラウディアはそれを聞いて肩を落とす。
「そんなに脅さなくてもいいじゃないの。わたくしの元婚約者は結婚前から思いやりってものを失っていたわ。結婚は関係なく、それがその人の本性だったんでしょう。逆にずっと誠実な方だっているわ」
「それはそうかもしれないけれど、殿下がどうかはわからないじゃない」
「わからないけれど、ずっと誠実な方である可能性だってあるじゃないの。せっかくフローラさんが上手くいっているようなのだから、怖がらせるのはやめましょうよ」
「私はただ、気を付けてと言いたいだけよ。フローラさんが傷ついたり我慢するようなことにはなってほしくないもの」
なぜかクラウディアとアマーリアが軽い言い合いのようになってしまった。
どうしたらいいのだろうと二人を交互に見ていると、ヨハンナがクスッと笑って小声でフローラに話しかけた。
「よくあることなのです。本気で喧嘩しているわけではないから、大丈夫ですわ。さて、そろそろお辞儀の練習に戻りましょうか」
フローラは頷いてお茶を飲み干すと、すっと立ち上がった。




