16 食事会
「ヨハンナさん、助けて」
修道女と共に大聖堂でお祈りを捧げた帰り、フローラは見習い修道女であるヨハンナを呼び止めた。
彼女は元次期伯爵夫人で、れっきとした貴族の女性だった。夫からの暴言を浴び続けたことにより心に傷を負って修道院に入ったという経歴の持ち主なので、見習いとはいってもフローラよりも年上だ。
「あら、フローラ様」
「教会内で『様』はいらないです」
大聖女になったことによって「フローラ様」と呼ばれることも増えたけれど、いままで立場が上だった人や年上の人からそう呼ばれるのは、なんだかゾワゾワしてしまう。ヨハンナはそれを汲み取ってくれ、ふんわりと笑って言い直した。
「フローラさん、ごきげんよう。どうかしたのですか?」
「殿下に食事に誘われました。殿下の宮で食事を用意するから一緒に食べませんか、って」
「あら、よかったではありませんか」
「それがよくないんです。私、食事のマナーなんて全くわからないんですよ。レストランで食事をしたこともないのに……」
エルマーからの手紙には、場所は離宮だし自分の使用人たちしかいない、形式ばったものではないので服装もマナーも何も気にせず気軽に来てほしい、と書かれていたが、そんなの鵜呑みにできるはずがない。
フローラはいつも教会で食事をしている。外出しているときは外で食べることもあるが、レストランと呼ばれる場所は敷居が高く、行ったことがない。最近イゾルデに「そのうち殿下と一緒に食事に行くこともあるかもしれないから勉強しないとね」なんて言われたばかりだったのに、街のレストランを通り越して王子の宮に招待されてしまった。
「これって本気で気軽に行ったらいけないやつですよね?」
「……そうですわね」
ヨハンナも真剣な顔で頷く。
エルマーとしては、叔父の助言を受けて考えに考えて出したお誘いの手紙だった。レストランに誘うのはハードルが高いようだからやめておこう、自分の宮ならば誰が気にするわけでもないし、まずはそこで服やらマナーやらについて話を聞いて、フローラにその気があれば先生を呼んでもいいし、そうでないなら自分が軽く教えるのでもいい。フローラの好みも探って、いずれ合いそうなお店に一緒に行けたらいいな、という計画だった。だけどフローラがそれを知る由もない。
一般的な感覚からすれば、富裕層であれば平民でも入ることのできる街のレストランよりも王子の宮のほうがどう考えたって敷居が高い。本来ならばビシッと盛装し、マナーもしっかりと身に着けた者だけが入ることを許される場所である。
そうはいってもフローラはドレスなど持っているはずがなく、誂えることもできない。そこは聖女の正装で許してもらうとして、あとはテーブルマナーというやつだ。
「……ということで、教えて下さい」
「なるほど、状況はわかりました。やれるだけやってみましょうか」
「ありがとうございます。頼りにしてます、ヨハンナ先生!」
ヨハンナはまたふんわりと笑って、それから肩を落とした。
「それにしても殿下は横暴なこと。婚約者になったのだからできて当然と思っているのかしら。それともできない様子を見て笑うつもりかしら?」
できて当然だとは思っているだろう。そもそもエルマーとフローラでは生まれ育ちが全然違うのだから、エルマーにとっては当たり前すぎて、できないということがわからないというレベルだと思われる。
だけどエルマーなら、できていなかったとしても、馬鹿にして笑うようなことはしない気がした。
「やるからには、せめて笑わせてやらないくらいにはなりましょうね」
ふふふ、と笑ったヨハンナの目は笑っていなかった。
そうして始まったヨハンナ先生のマナーレッスンだったが、思った以上にヨハンナが厳しくて驚いた。ふふふほほほと顔は優しく笑っているのに、間違えるとピシャリと「駄目です」と言われる。
同じく元貴族夫人のアマーリアがその様子を見に来た日には、「ヨハンナさんは優しいこと」と言っていた。貴族のご令嬢はこんな教育を受けてきているのだろうか。格の違いを感じる。やはり貴族社会は怖い。
◇
「ナプキンは広げて膝の上に、スプーンやフォークは外側から、スープが出たらスプーンは手前から奥に動かす……」
迎えた食事会の日、フローラはヨハンナに教わったことをブツブツと呟きながら迎えの馬車に乗り、エルマーの離宮を訪れた。
いつもの部屋に通されて、ナイフの動かし方を頭でイメージしながら少し待つと、エルマーが姿を現した。
「お待たせしてしまってすみません。……それは何の動きですか?」
「え?」
エルマーはフローラの手元を見ている。どうやら頭でイメージしながら手も動いてしまっていたようだ。「ナイフを動かす練習です」なんて王子の前で言ったら、取り押さえられて牢屋行きだ。
「えっと、その、癒しを使うときのことを考えていました」
「仕事熱心なのですね」
すみません、聖女もたまに嘘をつきます。
話題を変えつつコンサートのお礼をしなければと顔を上げる。先に口を開いたのはエルマーのほうだった。
「先日はすみませんでした。急にコンサートにお誘いして、困ったこともあったでしょう」
「いいえ! とても楽しかったです。初めての経験で、本当に楽しかったんです。大聖女になってよかった、って一瞬思ってしまったくらい、素敵な経験でした。ありがとうございました」
「それならよかったです」
エルマーがホッとしたように息を吐く。
「またお誘いしてもいいですか? コンサートもですし、次は観劇も面白いかなと思っています。劇には興味はないですか?」
「それは、あります、けど……」
「それならば是非。必要なものはこちらで揃えますから。……服とか、靴とか、あとは何がいるのでしょうか?」
フローラはハッと目を見張った。あの服が借り物だと知っているらしい。
「殿下にそのようなご迷惑をおかけするわけにはいきません」
「私がそうしたいのです。一緒にコンサートも劇も、また行きたいです。けれど、だからといって困らせたいわけではありませんから、本当は興味がないならそう言ってほしいです」
エルマーは一度目線を逸らして、少し考える仕草を見せ、そしてまた目線をフローラに戻した。
「私は王子という立場なので、軽い気持ちで言ったことでも、受け取る人によっては命令になってしまうことがあります。だけど大聖女様にはそう思ってほしくないのです。必要なものなら必要だと遠慮なく言ってほしいし、嫌なら嫌だと言ってほしい」
平民のフローラにはおこがましいけれど、少しだけわかる気もした。聖女として活動していると、必要以上に崇められたりする。聖女の言葉は絶対だと思う人もいる。王子という立場ならばなおさらだろう。
「嫌なわけではないのです。本当です。ただ、そうしていただいても私には返せるものがありません」
「そんなこと考えなくていいのです。私がそうしたいだけなのですから」
「どうしてそこまで言ってくださるのですか?」
フローラが思わず聞く。フローラは所詮平民だし、エルマーとの婚約だってお互いが望んだことではない。
エルマーは視線を彷徨わせた。そしてどこか照れるように言った。
「いずれ結婚したら、大聖女様をこちらに迎えたいと思っているからです」
扉をトントンと叩く音がした。扉はずっと開いているが、オイゲンの入りますよという合図だ。
「お食事の用意が整いました」
食事のために部屋を移動する。ヨハンナから習った通りだ。
一般的には別の部屋で待機し、従者が呼びに来たら移動して入室。従者の指示に従って席につく。椅子は従者が引いてくれるのを待ち、そして座ること。
その流れの通り席につくところまで無事にこなし、フローラは心の中で息を吐いた。だけど本番はここからだ。
(ええと、あとは順番にお料理が出てくるのよね?)
そう思っていたが、料理は一度に出てきた。スープとパン、小さく切られた肉、サラダ。カトラリーはフォークとスプーンが一つずつだけだ。
「食後のデザートに小さなケーキがありますが、食事は以上です。苦手なものがあれば残していただいていいですし、足りなければ言ってください。あ、一応確認はしたのですが、聖女は肉がダメとか、そういう決まりはないですよね?」
「ないです」
修道女には肉や卵を食べていい期間といけない期間があったり、いくつか食に規則があるが、聖女には特にない。
「今日は食べる順番とか所作とか、そういうのは一切気にせず好きに食べてください。私もそうしますから」
給仕係がレモン水をコップに注いで下がっていく。
「まだ昼なのでお酒は用意していませんが、飲みますか?」
「いえ、今日はやめておきます。戻ってから仕事もありますから」
「そうですよね。普段はよく飲むのですか?」
「よく、というほどでもないです。でもいいことがあった日とか、逆に嫌なことがあった日とかに少しだけ。殿下は飲みますか?」
「私も同じですね。いつか一緒に飲める日が楽しみです。あ、すみません。食べましょうか。お祈りはしますか?」
食事の前のお祈りは欠かせない。エルマーに許しをもらって祈り、それからスプーンを持った。
きっと味どころではないと思っていた食事は、しっかりと美味しさを感じた。




