10 王子は悩む
婚約を結ぶ日。
エルマーは朝からガチガチに緊張していた。国王である父や王太子である長兄と話すときも、政敵と舌戦を繰り広げるときも、こんなに緊張することはない。それなのに何度深呼吸しても気持ちは落ち着かなかった。
婚約が行われるという小聖堂に入ると、すでにそこには皆がそろっていた。もちろんフローラもいる。
一瞬だけ目が合った。だけど彼女はすぐに目を伏せてしまう。女神を待たせてしまった、と背筋が冷えた。最初から失敗している。
「それでは始めさせていただきます」
神官に促されて、エルマーは台の前に立った。
この書類に署名すればフローラとの婚約が成されると思うと、緊張で手が震えた。本当に自分でいいのだろうか。
祭壇の前という荘厳な場所の雰囲気もあって、エルマーは気後れした。それでも婚約は決められたことだし、他のどこの誰だかわからない男にフローラを蔑ろにされたら、と台の前にいる叔父を思って胸が苛立った。
『少なくとも、殿下ならばフローラ様の後ろ盾にはなれるでしょう』
ぐだぐだと悩んでいたエルマーに、オイゲンは仕方がないというようにそう言った。エルマーには王族という地位があるのだから、フローラを権力から守ることはできる。
エルマーは気持ちを奮い立たせて力強くサインした。
その場から下がると、続いてフローラが婚約の書類にサインをする。
あっという間に婚約が成り立った。
婚約を終えて貴賓室に移る。そこで皆がはけていき、フローラと二人になった。
思っていたよりも小柄だ。いや、一度は会っているはずなのだが、なにせエルマーの頭の中のフローラ像はこの世のものではなくなっている。
聖女降臨でないときのフローラは、それでも輝いている。だけど可愛らしい女性のようにも見えた。
そんなフローラと目が合った瞬間、鼓動が跳ねたと同時に話そうと思っていたことがスコーンと頭から抜けた。
なんとか話さなければと思って「あの」と声を出したら被ってしまい、また真っ白になった。あれだけ悩んだというのに、何を言うんだったか。聞きたいこともあったはずだ。
えっと、自己紹介。そう、自己紹介である。まずは自己紹介しなければ……。
◇
馬車で教会から自室に戻ってきたことを、エルマーは覚えていない。意識はあったはずだけれど、気がついたら自室にいて、枯れ木のようになっていた。
「殿下、ご婚約おめでとうございます」
「ああ、うん、ありがとう」
「疲れ切っているご様子ですね」
オイゲンがいつものハーブティーを入れてくれる。それを枯れ木の身体に染み込ませていくと、少し現世に戻ってきたような気がした。
「フローラ様とはどのようなお話をなさったのですか?」
「正直に言って記憶が飛んでいる部分があるような気がするのだが、とりあえず自己紹介はした」
「そうでしたか」
無事に婚約できたことは、率直に安堵した。緊張もしたし、本当にこれでいいのかという思いがなくなったわけではないが、それでもとても嬉しい。自室に戻って一息ついたら、その興奮が少し戻ってきた。
「そうだ、オイゲン。結婚したら普通は一緒に住むものだと思っていたが、認識が違っただろうか?」
「いえ、違わないと思いますが?」
オイゲンは不思議そうに首を傾げる。この国の貴族階級の話であれば、結婚したら同居が基本だ。婿入りを除き、ほとんどの場合は女性が夫の家に入る。子が生まれた後のことであれば、まぁ、夫婦それぞれだったりもするが、最初から別居というのはあまり聞かない。
「フローラ様をこちらの宮にお迎えするものだと私も思っていましたが、違うのでしょうか」
「今のまま教会にいるつもりらしかった」
「それは……また、どうして?」
「俺はもちろんこちらにいらしていただくつもりでいたが、分不相応だと言われてしまった」
「分不相応?」
この離宮は、エルマーが十五歳になった時に国王から与えられた宮だ。王子の宮だけあってそれなりに立派な造りだし、内装も格式高い。
一般的に見れば最上級であり分不相応だなどとはもってのほかだが、相手は大聖女であり、エルマーからすれば女神である。
「下界に降りる気などないということだろうか?」
「下界……。たしかに教会と比べるなら神からは遠ざかるかもしれません」
「それなら、部屋に祭壇でも作ればいいだろうか?」
エルマーは顎に手を当てて真剣に考える。
ちなみにフローラはもちろん、平民の自分が王子の宮だなんて「分不相応」と言ったのであって、王子の宮では私には足りませんわ、などという意味のことは口が裂けても言うわけがないのだが、エルマーは気付かない。
「祭壇は、どうなのでしょう? 私にも経験がないのでわかりかねますが、殿下がフローラ様をこちらの宮にお迎えするつもりならば、勝手に整える前にフローラ様に聞いてみてはいかがですか?」
「本人にか?」
「そうです。カルラが言うには、男に女心はわからないそうですから……」
オイゲンが遠い目をする。オイゲンとその妻カルラは共にエルマーに仕えているのでよく知っているつもりだが、見えないところでもいろいろあったに違いない。
「まずはお茶にお誘いしてみてはいかがですか?」
「お茶か」
「通常は婚約されたら定期的にお会いになる機会を設けるものですから、お誘いするのは問題ないはずです。むしろお誘いしないほうが失礼になるかもしれません」
婚約した貴族間では、会える距離であれば定期的に会い、そうでない場合は手紙を交わすのが通例となっている。フローラのいる教会も王都内にあり、距離としては会うのに不都合なことはない。
そうしてエルマーは「お茶をしましょう」というだけの手紙を書くのに、また頭を悩ませることになったのだった。
「ちなみにフローラ様とはその他の話はされたのですか?」
「大聖女様は身長が155センチなのだそうだ」
「身長?」
「体重はわからないそうだ」
「……殿下、女性に体重は聞くものではありませんよ。あと年齢も聞いてはいけません」
「尋ねたわけではないが、どちらも聞いてしまったな……。もしかして、機嫌を損ねたか?」




