なんでもない一日
ぬるり、夏の初め特有の生温い風が頬を撫でる。
窓を閉め忘れていたことに気が付き、しかし立ち上がるのも面倒に感じられてそのままにしておくことにした。虫が家の中に入ってきたら嫌ではあるが、今はまだ布団に包まっていたい。
ふと、壁に掛かったカレンダーに目を向ける。日付は真冬を訴えていて、夏である今日が何日なのかは全くわからなかった。
突然、枕元に置いた携帯が震える。アラームを設定していたことをすっかり忘れていた。今日の予定は何だっただろうか。......あぁ、今日は数少ない友人とボーリングに行く約束をしていた。もう待ち合わせの一時間前だ。仕方ない、準備するとしよう。昨日まで楽しみだったはずなのに今は足枷のように感じるのは気のせいだろうか。
重い体を無理やり起こす。最近続いていた寝不足のせいか、くらりと視界が歪んで頭痛がした。こんな調子では友人に迷惑をかけてしまう。どうしたものか。
しばらく考えた後、結局約束の時間の三十分前だというのに断りの電話をいれることにした。耳に当てた機械の向こうからはどこか気だるい声が聞こえていた。
朝から気分が悪い。幸い今日はボーリングしか予定がなかったから、家でゆっくりするとしよう。きっとこの怠さも明日にはなくなっているはずだ。
時刻は午前十一時四十分。頭痛薬を飲んで何か適当なものを食べて、それを朝食兼昼食にしてしまおう。それがいい。自分に言い聞かせるようにしてのそのそとキッチンへ向かう。
ガラリ、頭痛薬はどこへしまったか。ガラリ、ガラリ、四つ目の棚に手をかけたところで思い出す。数日前風邪をひいたときに使い切ってしまったのだ。買っておけばよかったと今更ながら後悔する。大きなため息をつきながら冷蔵庫を開けるが、入っていたのは何本かの炭酸水とお気に入りのゼリーが二つだけだった。一体いつからこんな生活になってしまったのか、自分に嫌気がさしてわざとうるさい音を立てて冷蔵庫の扉をバタンと閉じた。
今日は本当に何もやる気が起きない。今日は休日だったが明日からはそうもいかない。生きにくい世の中だ、そっと呟いてみればタイミングよく近くの小学校のチャイムが鳴り響いた。もう正午だ。朝食は諦めるしかないみたいだな。
何分か前に閉めたばかりの冷蔵庫に再び触れ、ゼリーを一つ取り出す。面倒くさいから昼食はこれでいい。金属製のスプーンを引き出しから漁り出し、紫色のドロリとした個体をゆっくりと掬い口元まで持ち上げる。ふわり、葡萄の甘い匂いが心を落ち着かせた。口に含んで、舌で絡めとり、噛まずにそのまま飲み込む。喉の奥が冷たくて気持ちよかった。
ヴーヴー、珍しく携帯が呼んでいる。ちょうど食べ終わったゼリーの容器を捨て、未だ震えるそれを手に取れば、旧友からメッセージが届いていた。
明日って空いてるか?
ただその一文だけだった。
これでは何を伝えようとしているのかわからない。明日何をするのか、それを教えてくれ旧友よ。特に既読をつけないまま明日を待って、気が付かなかったを貫こうか。それがいい、そうしよう。我ながらいい作戦だと思いながら携帯をマナーモードにしておく。これでまた自分だけの休日を独り占めすることができる。いつの間にか頭痛は治まっていた。
去年買った安っぽい壁掛け時計。二本の黒い針を駆使して十三時丁度を示していた。さて、午後は何をしようか。
部屋をぐるりと見渡すと、季節外れのスノードームが目に入った。これはいつ買ったものだったか。あぁそうだ、家族でスキーをしに行ったとき記念に買ったものだ。あれは何年前だっただろうか。覚えていないということはその程度のことだったのだろう。
気分転換にベランダにでも出てみようか。ガラ、と低い音を立てて雨戸をスライドさせる。文句ひとつない快晴だ。無意識に頬が緩んだ。目を閉じ、抱きついてくるぬるい風を感じていると赤ん坊の泣き叫ぶ声が聞こえてきた。昼寝から目が覚めてしまったのだろうか。子育ての経験のない自分には親の大変さはまだわからなかった。いつかこの泣き声を笑い声に変えるため奮闘する日々がくるのだろうか。
しばらく空を眺め部屋に戻ると、時計は十四時を伝えていた。
何も予定がない一日というものはこんなにも暇なものだったか。先週の休暇は何をして潰したのか思い出していれば、ピンポーンと遠慮がちに玄関が鳴き始めた。こんな自分に用事がありわざわざ家まで来る奴などいただろうか、いや、もしかすると宗教の勧誘かもしれない。あいにく神は信じていないのだ、もし金の絡むような件なら帰ってくれ。
居留守を決め玄関の前でじっとしていると聞きなれた誰かの声が降ってくる。低く落ち着いた、それでいて優しさの滲み出る声だ。誰のものだったか。その声は何度かこちらの名前を呼び、数分後には気配を消した。
込み上げてくる申し訳ない気持ちを無視しつつ、もう誰もいないであろう玄関の外へ足を踏み出す。見慣れたコンクリートが静かに出迎えてくれた。
彼が何の用でうちを訪ねたのか手がかりが欲しかったが特に見つからなかった。素直に用件を聞いていればよかったか、と少しの後悔が胸にしがみついていた。ガチャン、とドアを閉め鍵をかける。彼の名前が頭に蘇ることはなかった。
カチ、カチ、と静まり返った狭い部屋を時計の音だけが歩いている。十五時、だんだんと空が灰色に染まっていく。
あっという間にザーザー、と大粒の涙を零す天は自分を嘲笑っているようだった。表面だけが成長し、中身は幼い頃と何ら変わらない自分自身を。
疲れて座っていたソファがギシリと悲鳴をあげた。そうだ、まだやることがある。思い通りに動かない体を叱り立ち上がった。
十六時を指している時計の針が呆れたように自分を見下ろしていた。
のろのろと机へ向かい、握りこぶし程も厚さのある参考書を開く。ペラ、と音を立てページを変える度に目の奥がズキリと痛かった。芯が紙を駆け抜ける。いつの間にやら雨は止んでいた。
空腹感を覚えふと時計を見る。十九時を指す針は、よく見るとホコリが溜まっていた。
今日はもう寝てしまおう。いつもなら今頃はゲームをしているだろうが、今の自分にはそんな体力は残っていなかった。
三時間も支えとなってくれていた椅子から腰を上げ、心の中で感謝を告げる。床はひどく冷たかった。
スマホと懐中電灯を持ちベッドへと歩く。昔地震があったときに辺りが暗かったせいで転んでしまったことがある。それ以来ずっと、寝るときには懐中電灯を枕元に置いておくようになった。
時刻は十九時三十分。こんな時間から寝るのは少し罪悪感がある。何の努力もしなかった自分を責めながら、それでも意識は沈んでいった。
「おやすみ」