春の死神
一番嫌いな季節がやってきた。
春ってやつは、温かくて、冷たくて――――――意味もなく死にたくなる。
世間は陽気な季節で楽しさに溢れれば、溢れるほど、自分は惨めでどんどん死にたくなっていく。死にたい理由なんて、生きている以上にない。漠然とした何かが胸の中に居座って囁いてくる「もう、死んでしまってもいいのですよ。あなたは本当に、よく頑張りました」って、そんな甘い言葉に抗う必要もないのに、心のどこかでは死ぬのも怖くてできない自分がいる。死にたいくせに。
生きていくのは難しいけれど、生きているだけだったら何も考えなくても勝手に息をしている。死のうと考えると、案外死ぬことの方が労力と使うことに気が付いてから、なんだかよくわからなくなった。
誰かと一緒にいるほど。
誰かと一緒にいれば、いるほど“孤独”を感じた。どうあっても、自分が“世界で一人しかいない”という事実が首を絞めてくる。自分が生きた責任は、自分でしか負えないなんて。……誰かに自分の人生を代りにやってほしい。
◇◇◇
あの人は寂しい人。
自分が生きている実感が持てないだけの、どうしようもない人なの。
「ねぇ、そろそろさ。ベッドをダブルサイズに変えないか? やっぱり二人で寝るのにシングルは狭いと思うんだ」
「そんなことはないわ」
「君はいつだって、そう言うけれど落ちてしまったらどうするんだい?」
「あら? なら、私が落ちないように今夜も離さないで」
「――――――君ってやつは、」
私の言葉に不機嫌そうに眉をよせるくせに、口元は嬉しそうな貴方は、いつになったら気づくのかしらね。
自分が生きている実感を得るために、他者の体温求める指先。
自分の輪郭をなぞるために、着ている長袖。
自分の存在を知るために、浸かる湯船。
どれも、これも、自分の寂しさを埋めるための温かいもの。
他人は許せるくせに、自分のこととなると許せない貴方は、この世の誰よりも真面目で、一生懸命すぎるのよ。家の廊下をピカピカのツルツルになるまで磨いて、磨いた廊下を歩いたら滑って転んでしまうことなんて考えていない。滑って転ぶのはいつだって自分自身なのに。そんなおバカな貴方を見て、笑って、泣いてしまう。
ぼんやりと夜空を見つめる貴方の鋭利な横顔が、紙よりも白くて驚いてしまった。そのままフワリと消えてしまいそうな、儚さと、どうしようもない自虐性が見え隠れしている。
「熱心になにを見ているのかしら?」
「ん? あー、あぁ」
端切れの悪い返事に、私の鼓動がギシギシと音を立てる。私の思いなんて知らない貴方は、ゆらりと窓の外を指さした。窓の向こう側には立派な桜の木が見えた。外では緩やかな風が吹いているのか、白色が揺れている。
「綺麗だなぁって思って、ね」
「今からお花見をしましょう!」
「今から? こんな時間に?」
「こんな時間だからこそよ!」
本当は時間なんて知らない私は、困った顔をする貴方の手を引いて何も持たずに外へ出た。冷たい風も、「風邪をひいてしまうよ」なんて声も無視して、窓から見えた桜の木を目指して歩いていく。
世界が静まり返り、生きているのは私と貴方しかいない。緩やかに吹く、凍えるような風が、繋いでいる手の温かさが、私たちが生きている現実だと教えてくれる。
視界の隅にひらりと明かりを捕らえれば、そちらに視線を向けるより先に貴方の手が、私の手の中からスルリと滑り落ちた。ゆらゆらと覚束ない足取りで、花あかりに誘われて近づいていく。
――――――その後姿が、とても恐ろしかった。
桜の木は1本しかないのに存在感があり、貴方が、彼が、桜の幹に近づくたびに、私の喉は緊張で乾いていく。あぁ! 貴方を引き止めたいのに! 待っての三文字が喉に張り付いて離れない。
桜の木の下で、くるりと振り返った貴方の表情は暗くて見えない。
「――――――綺麗だね」
絞り出したような声に、ヒュッと喉が鳴る。
先ほどとは違って、しっかりとした足取りで私の目の前まで来た貴方は困ったように笑っていた。
「もう、帰ろうか」
差し出された掌に縋るように握っても、貴方は握り返してはくれなかった。その事実が胸を締め付ける。……お花見しよう。なんて言わなければよかった。
帰りは、貴方が私の手を引いて家へと向かう。
貴方の寂しい背中を見て思う。
――――あぁ、春の死神よ。どうか彼を連れて行かないで。
お読みいただきありがとうございました!