太陰夜行
大学の授業内で作成した紀行文です。放置しておくのも可哀想なので、投稿してみました。
嫦娥を冠する龍勢に乗じて三十八万粁を旅し、航路の果てに到達する私は、母星を見下ろした。
鉛色の大地を踏み越え、硝子の砂レゴリスに浮かぶ足跡の伸びるままに進み、架空の海を渡る。
蒼き三日月の軌跡は、もはや一縷となった我しかおらず、するりと水気のない大気は喉を涸れ果てさせるに至った。
そうして私は、私の本質が誘われんとしたとき、白い兎に出会うこととなる。
ランプが瞼を醒まし、瞼が眼を醒まし、眼が意識を醒ましたとき、薄いすだれに横たわった私は、オリエンタルの情調に浸る。
卓の上の、妙に油臭い菓子を空腹に耐えかねて喉に放り込むと、素足のままで土に触れた。
いやに天井の低い家である。腰を屈めてようやく外に出る。
今際の際であった私をこうして救ったのは何者かと、有難い思いを伝えんと、あたりを見回すが一人たりとも見えやしない。
昏き空を眺めるに、やはり私は月にいるようなのだ。
だが私以外の人間がいるとは考えに難く、北を向こうとも、東を向こうとも、南を向こうとも、西を向こうとも、私と言葉を共にできそうな相手はおらぬ。
寒寒とした大地に案山子の如く立ち尽くした私は、足元から響く声に視線を落とした。
「起きたか穢人。着いてこい」
と我が現身の膝小僧に届く程の大きさをした白兎が話しかけてくる。
私は驚愕した。
この白きものは、薄汚れた継接羽織をその両肩にはっと掛け、人のように二足で歩いておる。
穢人とは我のことであろうか。
私はその背に縋るように後ろを追いかけた。
一刻ばかり過ぎたころか、月餅屋という饅頭屋で、あの妙に油臭い平べったい菓子を食し、煤暗い羽織を着て、私は静かなる月の都へと足を踏み入れた。
朱に伸びた家屋の柱は闇夜によく映る。かの白兎は何も語らず菓子を喰わせてくる。
夜か昼かも分からぬが人気の少ない寂れた街だ。
相も変わらず兎しかおらぬが、その誰も彼もが瞳に生気を灯しておらん。
何処に向かっているのかと思索したが、どうやら巨大な楼閣を向いておる。
月夜見でも祀られておるのだろうか、やけに豪奢な建築である。
暫し歩いた。
鼻腔をくすぐる煤臭さが私を襲う。
近くで大火事でも起きたのか、何やら天に昇る黒煙が右手の、飯屋の先のさらに先から見える。
街が沈んでいるのはこの騒ぎのせいかもしれぬ。
火元は何であろうか、釜戸の薪でも入れすぎたのであろうか。
白兎は尚も変わらず進んでゆく。
楼の門扉を潜り、私は魂の昂りを感じている。
よもや月の裏側にこのような文明が築かれていようとは思いもよらず、我が総身には幽玄の世界が轟いている。
先の通りでは中々見られなかった人影も、一度関門に入ればかなりの数が散見する。
奥へ進みゆくと、私に奇異な視線を向ける兎が上へ上へと行き先を示す。
言に従い、宇宙に触りそうな程高き階段を上る。
白兎は「少し待っておれ」と私に言い残し、珠衣を纏う玉兎へと転じ、再び前を進む。
天の暗きに溶け入るところまで来た時、玉兎と私は一枚の大襖に向かいて呼吸を整える。
階上へ昇る手段は特になく、どうやらこの先が目的の場所のようである。
何が待ち受けているのだろうか、月の文明という奇天烈な世界ならば、先にもそういう類の、私の想像を凌駕するものがいるに違いない。
空想に踊る我の胸を意識し始めた矢先、戸の奥から進むよう声が掛かった。
玉兎に続き、我も同じように腰を低くして御簾の前で坐す。
誰であろうか。
何者かがこちらを覗いておる。
御簾の向こうから射す、朧げな光に縁取られた輪郭は、我にそれを淡い後光かと錯覚させ、神々しさまで想起させておる。きっと高貴な方であろう。
彼の方は我に「穢人の力を我らに与え給え、黒鳥を斃し永遠の安寧を齎し給え」と語りかける。
力とは何であろう。
黒鳥とは何であろう。
そもそも穢人とは何であろうか。
深き話を聞くに、曰く太陽の者共、鴉が月の都を襲っておるらしい。
私は納得した。
そうか、街が沈んでおったのはこれのせいなのか。
嘘か真か分からぬが、兎と鴉の戦をこの目で見てみたい、そう思いて私は高貴な方にその旨を述べる。このような身勝手が許されるものとは考えもしなかったが、しばしの沈黙の後、穢人の力を渡すことと引き換えに許しを得た。謁見を終え、玉兎に連れられた私は其の地に向かう。
街が荒んでおる。
天へ伸びる煙の足元に在る灰燼が、その無惨を物語っておる。
僅かに残った木片からは未だに火が燻っておる。
この土地も以前は街としての活気に満ちていたのであろうか。
今見えるは何者の影もない。
いや、強いて言うなれば宙駆ける獣の黒い影がちらほら見える。
あれが太陽の使い、鴉であろう。
黒々とした双翼を不気味に踊らせて、月を嘲笑うかのように舞っておる。
しかし彼奴らが、私が立つこの大地を火色に染めたとは驚きである。
如何にして黒きものが此方を燃やし尽くしたのかと私は玉兎に訊ねると、沈黙を貫いておった口を開いて、重々しく訥々と語り始めた。
曰く、太陽の力を自在に操り、その喉元から火炎を吐き出し、この薄暗い地表を灼け爛れさせるようである。
これまた珍妙な生物である。
玉兎は続いて、太陽の力は穢れそのものだと云う。
穢人はその光を糧に生きる者の総称だと云う。
さては月の者共は穢れを以て穢れを制しようとしておるのか。
私はかの高貴な方の言葉が腑に落ちた。
ここまで聞き終えて私が楼閣へ向けて踵を返そうとした時、いやらしく嘲笑するような鳥声が空虚に響く。
何事かと見上げると、黒い嘴に太陽の如く煌々ととしたものが貯められておる。
脱兎の如く走り出した我らは、街の残骸を隠れ蓑にする。
見つかればお陀仏であろう。
気配を殺し、じっと嵐が過ぎ去るのを待つ傍らで、既に焼け焦げた街は一片の生気も残さずに焼け野原へと天変してゆく。
暫しののち、焦土と化した一面に満足したのか、甲高い鳴き声を上げ、鴉は何処かへ飛び去る。
肝を冷やす出来事であった。
胸を撫で下ろした私と玉兎は帰路を急ぐ。
都に辿り着いて一息吐く間も無く、我らは高殿を登り詰める。
我は引き切らぬ流汗を無視し、再び高貴な方に相見え、
「我の穢人としての力を自由に使うがよい」
と云う。
その言葉ののち、我の烈しく煮えた拍動が冷静さを取り戻すと時を同じくして、すっと身体が軽くなる。
有無を言わさず何かを吸われているのであろうが、存外気分は悪くない。
心地よい感覚に覆われた私は、思わず意識を手放した。
目が醒めると、私はどうやら自宅へと舞い戻ったようである。
先のはなんだったのであろうか。
須臾の幻想だったのであろうか。
私は懐の、妙に油臭いふやけた菓子を食いながらこれを書く。
今宵は中秋の名月である。