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6 贄

 ダークは兄とともに暗い廊下を走っていた。二人とも質素な白い寝間着を一枚身につけているだけで、他には何も持っていない。裸足だ。

 床は磨かれた冷たい石。右手には扉が並び、左側には石柱が並んでいた。その先は闇がわだかまる中庭だ。空は曇っており、月の姿は見えない。

 どこからともなくゴーゴーと、風の唸りが聞こえてくる。


 ダークは不意に足がもつれて転んだ。ルークは数歩先に行きかけて止まり、引き返して膝を折る。目の前に片手が差し出された。


「大丈夫か、ダーク」


 心配そうな兄の声。ダークは屈辱を感じながらも、頷いてその手を取る。膝に痛みを感じて、ダークは顔をしかめた。

 兄は急かすように、彼の手を引っ張る。その視線がダークの背後に向けられていた。瞳には怯えが見える。


「急ごう。アイツが来る」


 ダークは頷いて立ち上がった。兄に手を引かれ、再び走り始める。

 白い背中を見つめながら、兄は正しい道を知っているのだろうか、と疑問を感じた。


 ルークは通路の突き当たりにあった大扉を開いて弟を中に引き込み、背中で扉を閉めた。

 二人でへたり込み、上がった息を整える。

 無言で視線を交わした。

 追っ手の足音が、扉のすぐ向こうから聞こえる。徐々に近づいてくる。

 恐怖が喉元までせり上がってきて、ダークは両手で口を押さえた。指先が冷たい。

 ルークは空の一点を見つめたまま耳を澄ませていたが、唇を噛みしめると再びダークに手を差し出した。

 二人は頷きあい、ダークはルークの手を取る。

 書架の間を走り始めた。


 ――書架。

 どうやらここは図書室のようだ。

 潜ってきた扉が大きな音を立てて開かれ、ダークの肩が跳ねる。肩越しに振り返ろうとしたとき、「見るな!」とルークが命令した。

 兄は大股で走っている。ダークはほとんど引きずられているような状態だ。


「待って、兄さん。膝が痛い!」


 しかし、兄は聞こえていないのか足を止めてくれない。息が苦しい。肺が焼けるようだ。

 ダークは咳き込む。

 目の前に扉が見えた。兄が勢いよくそれを開く。そして不意に立ち止まった。


「早く――」


 その背中にぶつかりそうになりながら、ダークは言いかけた言葉を飲み込んだ。

 扉の向こうの床は崩れて崖になっていた。真っ暗な闇が口を開けていて、生暖かい風が吹き上がっている。

 そして、床の続きは遙か先にあった。飛び越えるには絶望的な距離だ。

 ダークは振り返った。

 巨大な闇の塊が、書架の間をすり抜けてくる。

 彼を探している。


『贄よ……』

「あ……、ぁあ……」


 ダークが言葉を失っている間に、ルークの手が離れた。ダークは振り返る。兄は既に崖を飛び越えていた。

 どうやって? と驚愕に見開いたダークの瞳に、翼を持つ輝く人影が映る。天使は兄の傍らにいて、その手を引いていた。天使の導きで向こう側に着地した兄は、手を繋いだまま走り去ろうとしていた。


「待って! 待って兄さん!!」


 ダークは近づく闇に怯え、足元の崖に怯える。ドア枠につかまったまま、兄に向けて大きく腕を伸ばした。

 振り返ったのは天使だけだ。それは美しい顔で冷たく微笑んだ。ダークの双子の兄を、たった一人の味方を連れ去りながら。


「僕には無理だ。独りにしないで! 兄さん!!」

『我が贄よ……』


 声は耳のすぐ傍で聞こえた。ダークの背筋を、悪寒が走り上がる。


「……や…」


 ダークは逃れようと身をよじるが、片足が床を捉え損ねてバランスを崩しただけだ。

 突如、彼の胸の中心が燃え上がった。見ればそこから闇の片腕が生えている。

 闇王はすぐ後ろにいて、彼の身体を背後から貫いていた。


「あぁああぁ……っ!!」


 ダークは絶望と共に片手を伸ばす。兄の背は、とても遠くて――


 ◇


「ダーク、ダーク。目を覚ましなさい」


 切羽詰まったささやきが耳元で聞こえ、ダークは悪夢から引き戻された。

 心音が、激しいリズムを刻んでいる。胸は燃えるように熱い。眦は濡れていて、左手は誰かにしっかりと握られていた。


「にいさん……、……ぅ……、ゴホッ、ゴホゴホッ」


 右を下にしたまま、背を丸めて咳き込んだ。助けに戻ってくれたのだろうか。

 大きな手が、身体を超えて背中を撫でる。

 荒い呼吸を整えるうち、視界がはっきりとしてきた。

 自分はベッドに横たわっていて、傍らには兄ではなく、ヴィンセントがいた。

 ダークが頭を持ち上げようとすると、治療師はほっとしたように上体を戻す。


「ヴィンス、……僕」

「だいぶうなされていましたよ。また悪夢を見たのですか?」


 眉尻を下げたヴィンセントがベッドに腰を掛ける。ダークは身を起こし、そこで寝間着の胸元が大きくはだけられているのに気づいた。

 彼は合わせをぎゅっと握って、そこにある刻印を隠す。

 ヴィンセントは気づかぬふりで、手元に視線を落としている。腿の上に乳鉢を置き、薬草をすりつぶしていた。

 ダークがまた思い出したように咳き込んだ。悪夢を見た後は、いつも発作が起きる。


「すぐに処方します」


 ヴィンセントはてきぱきと薬草を準備すると、それを湯に溶いて差し出した。ダークは両手で受け取り、口をつける。

 どろりとした苦い液体が口内に広がり、ダークは顔をしかめた。何度飲んでも慣れない味だ。早く済ませたくて、ダークは鉢を一気に傾ける。

 ヴィンセントはその間、ダークの白い胸に刻まれた印をじっと見つめていた。歪んだ菱形から伸びる角のような形、それを円形に取り巻く炎と茨。まがまがしい雰囲気だ。

 苦労して全部を飲み込み、ダークは眉根を寄せて鉢を下ろした。


「おいしくない……」

「でも、効いたでしょう?」


 確かに、発作は治まっていた。

 ヴィンセントは穏やかに微笑む。そして片手を伸ばすと、ダークの口の端から零れた薬液を指で拭ってなめた。


「ちゃんと全部飲めて、偉かったですね」


 ダークは子供扱いが恥ずかしく、頬を赤らめる。暗闇が隠してくれることを祈った。

 咳の発作が止まったことで、改めて室内を見回す余裕が出来た。

 兄は隣のベッドですやすやと寝息を立てている。通路を挟んで足元側のヴィンセントが気づいてくれたというのに、とダークは兄に腹を立てた。対角にあるベッドからは、ザッシュのいびきが聞こえてくる。

 夢の中でずっと聞こえていた風音の正体はこれだ。

 ヴィンセントが彼の手から空の鉢を受け取った。


「何時?」

「夜明けまではまだあります。君はもう少し寝た方が良い」

「……うん」


 ダークは頷いて、ベッドに横たわる。掛け布団を引っ張って潜り込んだ。まだ頭の芯に疲れが残っている。

 ヴィンセントが離れる気配がした。


「……ありがと、ヴィンス」


 布団の下でもごもごと礼を言う。彼に聞こえたかどうかは分からなかった。

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