19 身の内の敵
悪魔の身体を貫いた直後、黒い霧の向こうにザッシュが見えた。けれどもルークの視線は、最愛の弟の姿を無意識に探す。
上半身がぐらついたところを、ヴィンセントに抱きとめられるのが見えた。
(良かった――)
安堵した直後のこと。不意に赤い影が飛びかかってきて、ルークの視界は強制的に天井に向けられたのだ。
「ザッシュ! ふざけている場合じゃ――」
ルークは怒ろうとした。しかし言葉尻は喉の奥に引っかかる。
自分の上に乗り上げている存在の瞳に、邪悪を見たからだ。
(――ザッシュじゃない。これは)
顔をしかめて右手の剣を引き寄せようと試みる。だが、押さえつけられた腕はびくともしない!
「やめ……、ろ」
「オれと、遊ぼウぜ?」
そこからは全てがコマ落としに感じられた。
ヴィンセントが己の名を呼ぶのが聞こえた。
ザッシュが濡れた唇を大きく開く。
鋭い牙。
それが首筋に埋まる。
ぶつりという奇妙な音を聞いたあとに、自分のものではない熱を感じた。
ルークは絶叫した。したような気がする。けれど、喉を震わせているはずの自分の声はまるで聞こえなかった。
代わりに血潮が、耳の奥で波立つ。
痛みは後から来た。
だが、痛みを感じるよりも早く、彼の意識は吸い出されていた。
ヴィンセントには、目に映った景色が信じられない。
一回りも二回りも大きくなったように見えるザッシュが、ルークの喉元に噛みついた。両手はルークの腕をがっちりと捉えており、腕の筋肉が不自然なほど盛り上がっている。神殿騎士は絶叫し、項垂れた。もがいていた四肢も、力を失っている。
ヴィンセントは、危険な状況を瞬時に読み取った。
ダークを横たえ、立ち上がる。
「ザッシュ! すぐに彼を離しなさい!!」
キルリーフは射るべきか否か迷っていた。
ザッシュにはヴィンセントの声が聞こえたに違いない。彼は顔を上げて振り向いた。
顔面の下半分が真っ赤に染まっている。
キルリーフは矢を放った。
しかしそれはザッシュのこめかみをかすめただけだ。外したのか、それとも警告の一射だったのか、ヴィンセントには分からない。
「ザッシュ!!」
治療師は既に走り出していた。噛みつかれたルークの首筋から、大量の血液が流れ出ている。このままでは命が危ない。
彼は落ちていた槍を拾い、駆けつけ様にザッシュの脇腹を狙って突き出した。無防備だった左脇に、穂先は深々と埋まる。
ザッシュがニタリと笑った。その凄惨な表情は、普段のザッシュとはかけ離れている。
「オマエ、おレとあソぶ……?」
「……いいでしょう。遊んであげます。だから彼を離しなさい!」
ザッシュは舌で唇をなめた。ルークの上から退き、ヴィンセントに向き直る。
ヴィンセントは危険を感じて槍を手放し、バックステップで距離を取った。
ザッシュは槍を見もせずに引き抜き、背後に放つ。がらんと音を立てて、槍が落ちる。
ヴィンセントは相手から視線を外さなかった。ザッシュは立ち上がり、両手を胸の高さに持ち上げた。指先から、鋭く尖った爪が伸びている。ヴィンセントは彼の緑の瞳が赤黒く輝いていることに気づいた。明らかに我を失っている。
「あソぼ」
「つかまえてごらんなさい」
ザッシュが突進する。
ヴィンセントはそれを、ひらりと躱した。彼は腰から鞭を引き抜き、それでザッシュの右ふくらはぎを打ちすえる。
「グルルゥ……!」
ザッシュの喉奥から、獣の苦痛が零れた。彼は打たれた脚を前に出そうとして、果たせないことを知る。見れば膝から下に、紫色をした幻影の茨が絡みついている。
ヴィンセントは瞳を動かす。視界の端で、キルリーフが影のように動いて、ルークを確保に向かうのが見えた。
「おやおや? どうしたのですか? 私はここですよ」
「ガアアアアッ!!」
右脚を軸に身体を半回転させ、ザッシュが向き直った。苛立ち、両腕を振り回してくる。リーチが広いが雑な動きをするそれを、ヴィンセントは良く見て、再び鞭を振るった。今度は左手首を打ちすえる。
途端に茨に縛られ、ザッシュの左腕が落ちた。
「さあ、次はどこを縛られたいのです?」
ヴィンセントは暴れるザッシュをからかうように、彼の攻撃範囲のギリギリを舞う。鞭を鳴らし、獣の力を封じていった。
最後には全身を魔法の茨に拘束されたザッシュが、床に倒れ伏す。
ヴィンセントは「ふぅ」と息をついて、左手で額の汗を拭った。
「良い運動になりましたよ、ザッシュ」
「グルルルル……」
ザッシュは筋肉を盛り上がらせて茨を断ち切ろうとするが、弾力のある茨は切れる気配がなく、暴れても身体に棘が食い込むだけだ。
「もがけばもがくほど、痛い思いをしますよ。頭が冷えるまで、そこで良い子にしていなさい」
威嚇するように、びしりと一度床を打った後、ヴィンセントは鞭を丸めてルークの方へ向かった。
傍らにキルリーフが座っている。近づくと、彼が顔を上げた。
無表情なその顔は、返り血で真っ赤になっている。彼は両手でルークの首元の血管を押さえていた。
治療師は隣に跪き、鞄から手早く治療用具を取り出して両手を消毒する。
「代わって」
ヴィンセントが言い、キルリーフは身をひいた。治療師は代わって傷口を押さえ、処置を始める。
恐ろしい手際の良さだ。
「……。助かるか?」
逡巡したあとで、キルリーフが静かに聞いた。
「助けます」
ヴィンセントは振り返らず、手を止めることもなくそう言った。




