18 暴走
「さァて、オレ様のかわいこちャん? やっと二人きりになれたねェ? どこにいるのかな?」
「!」
ダークは呪文の詠唱も忘れ、胸の中央を右手で強く押さえながら後退った。
「怖がらなくて良いよォ? 痛い事なんてしないよ? だって、痛い事はとッッても気持ちの良ィことだからね?」
『ダーク! 逃げろ!!』
泡の向こうから、兄のくぐもった声が聞こえる。
言われなくてもダークはそうするつもりだった。けれど、膝が震えて言うことを聞かない。彼は必死で自分を奮い立たせ、足音を立てぬように下がる。
しかし祭壇の縁を片足が捉え損ね、尻から倒れ込んだ。杖が床を打ち、大きな音を立ててしまう。悪魔は彼の方を向いた。
「んんー? そこかな? ……なんちャッて。見えなくても、い~ィ匂いがするぞ……。甘い、甘い甘ァい、魂の匂いがね」
ダークは慌てて杖を拾い、立ち上がろうとした。だが直後に悪魔にのしかかられて一段高くなった床に押し倒された。
「くそ……っ、離せっ!!」
杖を振り回して悪魔を打ちすえるが、まるで効いていない。悪魔は片手で杖を受け止めると、彼から取り上げて遠くへ放り投げた。ダークが絶望と共にそれを目で追う。
馬乗りの悪魔は構わず、彼の両腕を押さえ込み、顔を近づけた。頬に息が吹き掛かり、ダークは顔を背けたまま目を閉じて息を止める。
『止めろ!! ダークから手を離せ!!』
ルークが泡の中で絶叫する。彼は半狂乱になって泡に身体を打ち付けていた。
「これはこれは……。噂にたがわぬ上物の魂じャないか。いや、噂以上だ。コイツを喰らえば、オレ様の力は百倍、いや、それ以上に……。一息に魔王になれる」
悪魔は文字通り垂涎し、ダークの頬や耳や首を先の尖った青い舌で嘗め回す。ダークは全身に鳥肌を立てた。
「嫌だ! ヤ……、兄さん! 助けて、兄さん!!」
『ダーク!!』
魂を絞りだそうと獲物の喉に手を掛けた悪魔は、しかし、奇妙な力にはじき返された。彼は目を閉じたまま顔をしかめる。倒していた身体を起こし、ダークのローブの合わせに爪を引っかけた。
一息に切り裂くと、白い胸に刻まれた契約印が露わになる。
見えずとも、悪魔は目蓋の裏にその存在をはっきりと感じ取れた。
「ハッ! 闇王め……これ見よがしに、所有印なんぞ刻みおッて」
印に爪を立てようとした悪魔は、赤熱する鉄板に触ったかのように手を引っ込めた。舌打ちをする。
「あぁ……っ」
ダークは胸の印が燃え上がるように感じた。熱い。痛い。眦から涙が零れた。紫紺の瞳は光を失い、目蓋が半ば落ちる。
浅い呼吸を繰り返し、薄い胸が上下した。
「だが方法がないわけではないぞ。オレ様が時間を掛けてじッくりとオマエを――」
悪魔はそこまでしか言えなかった。何者かが、勢いよく彼に体当たりしてダークの上から引きはがしたのだ。
「な、にィ!?」
意表を突かれた悪魔は数メートル吹っ飛ばされて転倒した。見えない悪魔には、何が起きたのか咄嗟には分からない。すぐに大きな質量にのしかかられた。今までにはなかった気配だ。
「ガァッ!!」
「なんだ!? 一体どこから……」
その姿は寒冷地の熊のように大きい。背中は燃えるような赤毛に覆われ、頭部からねじくれた大きな角が二本、突き出していた。悪魔を抑え込んだ肩の筋肉が盛り上がっている。長い尻尾が苛立たしげに揺れ、逆光になった顔の中で瞳は石炭のように赤黒く燃えていた。
「この匂い、まさかオマ……ぎャあああああッ!!!」
悪魔が絶叫した。獣が巨大な顎で、悪魔の喉笛に噛みつき、肉を引きちぎったのだ。長い苦悶は、最後はごぼごぼとした不気味な水音に取って代わる。
「オレとあソぼうぜ」
悪魔の肉を喰らい、牙の間から黒い霧を掃き出しながら、獣は舌足らずに言った。
「……っ、うそ? ザッシュ!?」
絶望から我に返ったダークが、肘を立てて上体を持ち上げる。
悪魔を抑え込んでいるのは一見、赤毛の大型獣に見えたが、良く見れば四肢は人の形を留めていた。名を呼ばれたザッシュが、ダークを振り返る。
その瞳に宿る昏い熾火を見て、魔術師は震え上がった。獣の左目に大きな刀傷がある。ザッシュに間違いない。だがその意志を支配するのは空腹に我を失った肉食獣の魂だ。
その彼の下から、悪魔が消えた。ザッシュの意識が手元に戻る。
「……くひュー…、ョくも、邪魔、を」
喉を押さえながら、悪魔が憎悪をザッシュに向ける。指の隙間から、黒い霧が流れ出ていた。
ザッシュが素早く悪魔に向き直る。低くした姿勢、いや、ほとんど四足歩行だ。
「ぐるるるる……!」
低く喉を鳴らしている。
「獣め、泡を喰い破ったか。だが、キサマなんぞ――」
悪魔は空いている手を大きく持ち上げた。何かをしようとしていた。だが、何をしようとしていたのかは、永遠に分からないままになった。
彼の身体が揺れ、突如として胸から白銀に輝く大きな棘が生えたからだ。
離れたところから様子を見ていたダークにも、初め、何が起きたのか分からなかった。悪魔にも分からなかったらしい。分かり易く驚愕の表情を浮かべて自らの胸を見下ろした。
「ダークは誰にも渡さない!! ルラールよ! 汝の敵に裁きを!!」
ルークの声が響く。
悪魔の心臓を貫いた剣に、さらなる神の加護が宿った。光輝く剣に内側から焼かれ、悪魔は身を悶えて絶叫した。
「兄さん!?」
「オレ……様、の……」
一拍遅れて悪魔の姿が黒い霧状に散っていく。それでも敵は、未練がましくダークの方に腕を伸ばした。その腕も、身体と共にボロボロと崩れていく。
霧の向こう側から、怒りの形相で剣を突き出すルークが露わになった。
ダークの視界の端に、泡が消えて解放されたヴィンセントが駆け寄ってくるのが映る。彼は安堵し、直後に意識が暗転した。
「っと……。気を失ってしまいましたか」
慌てて駆け込んで華奢な肩を抱き留め、白衣の男が嘆息した。傍らに跪いてダークの額に手を当て、続いて手首から脈を取る。
熱が高い。それに脈も速かった。
ヴィンセントはダークの開かれた胸元に視線を落とした。まがまがしい刻印が熱をもっている。
彼らは再び、目に見えない何かが全身を撫でるのを感じた。異変に顔を上げると、元通りの、ゴブリンの死体が山となった祭壇の間にいた。
ヴィンセントはため息をつく。
「どうやら結界の中だったようですね」
「敵の変則的な動きはそのせいか」
ダークの杖を拾い、キルリーフが音もなく傍に来ていた。
「うわっ!!」
その時、ルークの驚愕が聞こえ、ヴィンセントはダークを支えたままそちらを見た。
ザッシュが、何故かルークに襲いかかっている。
悪魔にしていたように彼を押し倒し、喉元に食らいつこうとしていた!
「ルーク!」
ヴィンセントが大声を上げる間に、キルリーフは素早く弓に矢をつがえている。




