プロローグ
むかしむかしのおおむかし。
偉大なる創世神ヴァローはふと思い立ち、静かに凪いだ混沌の水面を、秩序の杖もてかき混ぜました。すると水面は渦を巻き、バチバチと閃光を放ちます。
やがて渦の中から、光るものが吐き出されました。大きな球が二つと、小さくて尖った粒が無数にです。
ヴァローはこれらを気に入り、水面の上に飾ることにします。
神は初め、大きな球を並べて置こうとしました。しかし二つは近づけると反発し、片方が弾かれて水面の外に落ちました。
割れてしまった球をヴァローは魔法でかき集め、今度は離れたところに浮かべます。
こうして球の一つは太陽となり、もう一つは月となりました。
月は、太陽の反対側にあるときには、ヴァローの魔法で丸い姿を保ちます。けれども、互いが近づいていくと、徐々に魔法が解け、割れた姿に戻ってしまうのです。
無数の小さな粒は、太陽と月の周りにまんべんなくまぶされました。天の誕生です。
ヴァローがさらに渦を観察していると、中心に澱が凝り固まった膜ができてきました。
創世神はその膜に息を吹きかけ、水面の上に固定します。
こうして祝福されし光輝の地、アスタルができました。
我らが今いるこの島、アスタルは世界で最初に作られた場所であり、世界の中心であり、ゆえに最も神聖な――
「ストーーーーーップ!!」
語りを妨害する高い声に、吟遊詩人は次なる言葉を飲み込んだ。
リュートの弦をはじく手を止め、閉じていた目蓋を開く。彼の意識は、創世の時代から現代へと一息に戻された。
神殿内は適温に保たれ、白亜の石柱には魔法の明かりが揺らめく。床は磨かれた白大理石だ。彼の真正面には毛足の長い絨毯が敷かれ、無数のクッションが置かれた小高い奥座があり、そこに女官たちに囲まれて一人の少女が横たわっていた。
幼さを残した顔だちに、高く結い上げた薄水色の髪。額には繊細な精霊銀のサークレットが光る。俯せに寝転がり、顎の下で枕を抱いていた。絹で仕立てられた部屋着の裾からは、素足が見えている。彼女は膝を交互に折り曲げては、クッションの上にうち下ろしていた。
少女は片手を口元に添え、間延びしたあくびをした。
眦に浮かんだ涙を拭い、長枕に再び頭を預ける。
「創世神話なんて聞き飽きていますわ。そんな物語しか歌えないのなら、あなたを吟遊詩人と認めることはできませんわね、泥棒さん? 典範の通り、あなたを処刑することにします」
幼い少女は、残酷な言葉をいとも簡単に言ってのけた。吟遊詩人の口元が緊張を孕む。
彼の周囲を取り巻く完全武装の戦士たちが、立てていた槍を一斉に構えた。穂先は全て、吟遊詩人の胴に向いている。
彼は内面の恐怖を飲み込み、居住まいを正して一礼した。
「巫女様のお望みのままに。しかし無聊をお慰めもできずに黄泉路をたどったとあっては、冥府にて我が師オルフェに申し開きもできませぬ」
姿勢を戻すと、彼は青みがかった黒の前髪をかき上げた。芝居がかった仕草だ。
「いま一度、この愚かな吟遊詩人にチャンスをいただけませぬか? 夜はまだ、始まったばかりにございます」
「そうねぇ」
幼い巫女は、愛らしい様子で首を傾げた。人の命の掛かった選択を、お気に入りの菓子を選ぶがごとく悩んでみせる。
「いいわ。あなたの美しい声に免じて、もう一度だけチャンスをあげます」
「エルドリス神よ、感謝いたします」
男は信奉する神に祈った。彼の生まれ持った武器は、美の神であり音楽の神でもあるエルドリスの恩寵に他ならない。
「今度はお間違えのないようにね? わたくしを楽しませた分だけ、あなたの命の蝋燭が延びることになるのですから」
少女が片手をひらめかせると、吟遊詩人を脅していた槍が一斉に引かれた。この勇ましき戦士たちも、全てが女性だ。この部屋にいる男性は、吟遊詩人ただ一人。
いや、この島にいる男が、と言った方が正しいだろうか。
「して、巫女様。どのような物語をご所望ですか?」
「そうねえ……」
巫女と呼ばれた少女は、右頬に指を立てて首を傾げた。紫の瞳が、僅かに室内を彷徨ったあとで、吟遊詩人の上に戻ってくる。
「やっぱり、冒険譚が良いわ! ここはすごく退屈なのですもの……。せめて想像の世界でくらい、あちこち旅をしてみたいの。ドキドキしてみたいの!」
「ごもっともでございますね」
「強くて格好いい勇者たちが、協力して大きな事を成し遂げるの! 世界を滅ぼそうとする悪い神を倒すとか、凶暴なドラゴンを倒すとか! ……いえ、待って……。壮大なのは読んだばかりだったわ……『竜と魔導書』で」
少女は有名な英雄譚を挙げ、小首を傾げた。眉根が寄り、唇が尖る。
頬に垂れ下がる髪を人差し指に絡め、少女は暫し考え込んだ。それから、何かを思いついた様子で顔を上げる。
「規模は小さくとも、心に残るような冒険も良いわね。そうよ! 駄目なところのある者たちが、時に失敗したり、ぶつかったりしながら、成長していく物語が良いわ! できるかしら?」
『竜と魔導書』も、そうとう駄目な者たちが主人公だった憶えがあったが、吟遊詩人は反論しなかった。しばし無言で顎を撫でたあと、重々しく頷く。そして愛用のリュートを構え直し、その弦を幾つかはじいてみる。
「さて。では即興にて歌ってみるといたしましょう。旅の仲間は……、そうですね。五人」
「いいわね! 五という数字はとてもバランスが取れていますもの」
「ふふ、そのようで」
吟遊詩人は目を細めたあと、リュートに視線を落とし、窺うように爪弾く。
「最初の一人、いや二人は光と闇の……双子のようです。一人は神殿騎士。高潔な使命を神から授かり、他者を守護することに秀でております。一人は魔術師。研鑽した強力な魔法の力で、障害を切り開きます」
吟遊詩人は顔を上げた。少女はにこにこと頷いている。いいようだ。
「双子を導く庇護者は、年上の治療師です。経験豊富な知恵者で、落ち着きのある大人。そして……、四人目は”混じり者”」
「混じり者?」
「はい。この世界には、魔物や悪魔の血を引く者が少数ながら存在しております。彼らは人と魔との間で揺れ動く者。そして、どちらからも迫害を受ける者です」
「まあ、かわいそう……!」
「最後の一人は謎めいております。五人目は森エルフです。とても無口で物静か。というのもこの者、実は暗殺者なのです。どうして一行と共にいるのでしょうね?」
「もしかして、仲間を裏切るつもりなのかしら……?」
いつの間にやら巫女は身を起こし、両足を割って座り、手を握り合わせていた。吟遊詩人はさらにリュートに尋ねていく。
「この、……二人の女性と三人の男性からなるパーティは……」
「えっ、駄目よ!」
心地よく語ろうとした矢先に、再びストップが掛かる。吟遊詩人は手を止めた。
先ほどまできらきらしていていた巫女の瞳が、悩ましげに彷徨っている。彼女は爪を噛んで、考え込んでいた。
「冒険者のパーティが男女混合なのは、物語ではよくあるけれど」
「ええ」
「わたくし、余りリアリティがないとおもいますわ」
「さよう……ですか?」
「そうよ。とのがたと一緒だと、女性はいろいろ困ることがありますもの。宿の部屋一つとっても、野営のテントでも」
ねえ、と巫女が周囲の女官に確認し、女性たちは真面目な顔で頷く。吟遊詩人は眉尻を下げた。巫女はさらに続ける。
「男女混合パーティだと、恋愛のごたごたも鬱陶しいし!」
「う、鬱陶しい……。恋愛の甘酸っぱい機微は、女性の好むところかと思っておりました……」
「そういう気分の時もあるかも知れませんけれど、いまのわたくしは、男同士の友情とか、信頼とか、プライドの張り合いとか、喧嘩とか、……もっと他の複雑な感情とか、……そういうのを聞きたいですの!」
ねー、と女官たちに確認する。彼女たちはこくこくと深く頷いた。
「なる……ほど」
この閉ざされた島には女性しかいない。彼女たちはそれぞれの”神聖なる役目”を終えるまで、アスタルから出ることを許されていないのだ。”男性たちの物語”にこそ飢えているのかも知れない。
吟遊詩人は目を瞑って天を仰いだ。
(男だけのパーティーか。俺にできるだろうか。関係性の機微を横糸に、冒険を縦糸に、歌を紡いで大きな絵を描く……)
彼は小さく首を振った。
(いや、出来ねば死だぞ。ともかく、初めは小さな物語で良いはずだ。まずは試しに一曲、献じてみよう。巫女の反応が良いようなら、二枚三枚とタペストリーを綴り、それがやがて大きな絵になっていくはず。そうして出来上がった作品で、俺自身の命を購えれば良いが)
吟遊詩人は目を開いた。
「なんとかやってみましょう、巫女様」
「まあ! うれしいわ」
「ただし!」と詩人はすかさず指を立てる。
「我々詩人にとって、即興の物語というものは、神からの賜り物です。私の物語であって、私の物語ではありません。ひとたび語り始まれば、登場人物たちは勝手に動き、勝手に話しはじめます。思惑通りに行くこと以上に、行かないことも多いのです。それもそのはず。この物語は、過去に起きたことかも知れず、これから起きることかも知れず、今しも世界のどこかで起きていることかも知れぬのです。私にできることは、リュートが伝えてくるヴィジョンを、必死で言葉にすることのみ」
「……というと?」
巫女はつややかな唇に指を立て、可愛らしい様子で首を傾げた。水色の髪がさらさらと肩からなだれ落ちる。
「冒険は失敗するかも知れず、……仲間は死ぬかも知れず」
「ええーっ!?」
巫女は不満の声をもらした。吟遊詩人は笑みをこらえ、わざとらしい重々しさで頷く。
「物語の神は時として、”生け贄”を我々に要求するのです……巫女様。しかしその緊張感が、語りをよりよいものにしてくれるでしょう」
吟遊詩人は口上を終えると、改めてリュートを構えた。
「覚悟はよろしいですか? ――よろしい。それではいざ、始めましょう。男子冒険者たちの初めの物語は――」
――『宝石の湧き出す村』――
こんなお話になる予定です。
お心にピーンと来た巫女さまは、どうぞ応援よろしくお願いします。