その21、伯爵令嬢と商談。(1)
ようやく会う事を承諾してくれたヴィンセントが指定した場所がベルの行きつけの喫茶店であった事に驚きながらルキはその店を訪れた。
通された2階はテーブルと2脚の椅子のみの簡素な作りではあったが、清潔に保たれていて居心地は悪くなかった。
ベルとこの店に来る時はいつもカウンター席かテイクアウトだったなとか、彼女が淹れてくれるコーヒーはこの店のブレンドコーヒーの豆を使っていたな、など不意に記憶の蓋が開いて思考が止まりそうになる。
「珍しいな。ルキが私を呼びつけるなんて」
ヴィンセントの言葉で現実に戻ったルキはじっと祖父を見る。
向かい合わせでコーヒーを飲むヴィンセントは普段は着ないような庶民向けの地味な格好をしていて、慣れた様子でそこに座っていた。
「母について知りたくて」
そう口を開いたルキを見て、ヴィンセントは目を細める。あれだけ嫌っていた母親の話題をルキが口にしたのは初めてだった。
「なんで、13年も出て行かなかったんだろうなってそう思いまして。記憶の中のあの人はいつも不機嫌で、自分勝手だったけど、最初からそうだったわけでもなかったなって」
ぽつり、ぽつりと思い出すようにルキは言葉を漏らす。
母親が出て行ったのはルキが12歳、シルヴィアが2歳の時だった。
記憶の中の父と母の関係は、好ましいものではなかった。いつも父に食ってかかるように怒鳴る母と、それを何も言わずただ見ているだけの父。
いつからそうだったのだろう?
忘れようとしたもっとずっと古い記憶の中には、そうではない母の姿が存在する。
手放しに自慢げに自分の事を褒めてくれる母の姿が。
「女の人にとって10代から20代って一番花盛りでしょう。その期間なんでずっとうちにいたのかなって、今更だけど知りたくなって」
ブルーノ公爵家のタブーとして語られる事のない母親。ルキはベルのように母の死を悼んだ事もない。だが、口数の少ない父の執務室には未だにその母の写真があるのだ。とても綺麗な顔で微笑む、あの人の姿が。
「……ベルちゃんの影響かな。ルキがそんな事を言い出したのは」
じっとルキの事を見たヴィンセントは、ゆっくりと微笑み独り言のようにそう漏らす。
「もっと他の事を聞きたいのかと思ったよ。例えば、ベルちゃんが今どうしているのか、とか」
「ベルだったらきっとどこでも逞しくやっていることでしょう。どうせ祖父様は聞いても、教えてくれないでしょうし、今の私では彼女に会いに行っても何も変わりません。だから今は必要ありません」
覚悟を決めたらしい濃紺の瞳は揺るがない。それを見てゆっくり笑ったヴィンセントは、
「やっぱり、ベルちゃんにルキの婚約者を頼んで正解だったな。いい目をするようになった」
味わうようにゆっくりとコーヒーを飲むと、
「あくまで私視点の話だ。本当のところは当事者にしか分からない。気になるなら別の視点からも拾ってみなさい」
その気になれば、情報なんていくらでも拾えるのだからと静かにそう言った。
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リィーゼ・フィールはブルーノ公爵家の縁戚にあたる子爵家の令嬢で、とても華のある美しい人だった。
公爵家に連なる一派に属するだけあって、子爵令嬢とは思えないほど淑女としてのマナーと教養を兼ね備えていた彼女は多くの人間に妻として望まれた。
人目を引く容姿に物怖じしない性格。相手が誰であっても忌憚なく意見を述べる彼女。それはルシファーに対しても変わらなかった。
公爵家の跡取りとして育てられ、一歩引かれて敬われることに慣れていたルシファーの目にはリィーゼがとても新鮮であっという間に惹かれていった。
公爵家からの申し出を子爵家が断れるはずもなく、リィーゼが18歳の成人を迎えると同時に彼女は請われるまま次期公爵夫人となった。
途端に、リィーゼの生活は一変した。豪華な屋敷に一級品のドレスや装飾品。夫から与えられる何不自由ない生活。
リィーゼが今まで知らなかった世界がそこにあった。
だがリィーゼの自由奔放さも物言いも格式高い名門公爵家では通用しない。リィーゼは必死に次期公爵夫人になるためにその型にハマろうと努力した。
それなのに望まれて結婚したはずの夫は仕事ばかりで会話もない。物だけが与えられ、心が返ってこない。
花よ蝶よと持て囃されて当然のように愛されていた彼女には耐えがたい苦痛だった。
それでもリィーゼは夫を愛そうとした。自分によく似た子が生まれた時、初めてルシファーから労われ感謝された。
この子は公爵家の跡取りだ、と。
それまでとは変わりルシファーが自分に会いに来てくれるようになったことで、我が子が益々可愛く思えたリィーゼは自分の持てる限りの愛情を全て我が子に捧げた。
だけど、それもルキが3歳になるまでだった。
後継者教育をしなくてはいけない。
当然のようにリィーゼからルキは引き離された。
それがブルーノ公爵家のやり方だったからだ。
その日からだった。
リィーゼが反抗的に、癇癪を起こすようになったのは。
衝動的に不必要な物を買い漁り、夜会を渡り歩き、火遊びに身を投じる。
だが、リィーゼが何をしでかしてもルシファーは咎めなかった。
リィーゼを愛していたルシファーはそれを寛容な心で赦していた。だが、リィーゼにとってそれはただの"無関心"でしかなかった。
何をしても、眉ひとつ動かさず、諌めてすらくれない。
それはリィーゼからすれば愛などではなく、ルシファーにとってリィーゼなど取るに足らない人間だ、と言われているも同じだった。
愛されている実感がない。リィーゼの行動はどんどんエスカレートしていくが、なまじ地位が高く誰かを害しているわけでもないため、誰も彼女を止めることはなく、何も変わらなかった。
ルシファーが爵位をついで公爵になっても、ずっと。
その上目に入れても痛くないほど愛した息子は後継者教育を受けてどんどん公爵家の人間になっていく。
きっと、このままではルキも誰も愛せない子になる。
ルシファーとすれ違い続けて、疲れたリィーゼは最後の望みをかけて子どもを生んだ。またあの頃みたいに戻れたら、と。
だが生まれた子は女の子で、一人っ子だったルシファーは、シルヴィアをどう扱えばいいのか分からなかった。
泣き喚くリィーゼを前に、かける言葉を見つけられなかったルシファーに、リィーゼはただ一言。
『もう、いい』
とだけいった。リィーゼの中で愛情というものが枯渇した瞬間だった。
リィーゼはただルシファーから妻として愛されたかったのだ。それが叶わず、逃げたいとつぶやいた彼女の手を取った使用人の男性と出て行ってそのまま帰らぬ人となった。
リィーゼが逃亡した日は大雨で視界が悪く、不幸な事故だった。
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