その13、伯爵令嬢と気がかり。(3)
帰宅した2人を見てお出迎えに出てきたシルヴィアは、平手打ちされたルキのまだ赤い頬を見て、
「どうされたのです! お兄様!!」
と絶叫する。
「ベルに殴られた」
「殴ってません、平手打ちです。第一端折り過ぎです」
一方的に私が悪いみたいじゃないですかとベルは抗議の声を上げる。
事情を説明すれば、
「ベルのお義姉様がご懐妊! まぁおめでとう!!」
シルヴィアはまるで自分の事のように嬉しそうにそう言ってくれた。
相変わらず天使とベルはシルヴィアを見て癒されながら、シルヴィアにお土産を渡す。
「シル様刺繍されたいと言っていたので。綺麗な色が入ってたのでお土産です」
シルヴィアが普段使う高級品の刺繍糸ではないが、とても綺麗な色だったので思わず買ってしまった。
「わぁ、素敵な色味。ありがとう、ベル。大事に使うわ。……ふふ、私の色ね」
柔らかな金と濃紺と淡いピンクの糸を手に取りシルヴィアは笑ってお礼を言う。
「他にも何色か。シル様の作品楽しみにしていますね」
ベルはどういたしましてと笑う。
「ベルのベビー服も楽しみ! できたら見せてね」
「勿論、喜んで」
「ねぇ、ベル。赤ちゃんが生まれたら私もベルのお義姉様にプレゼントを贈りたいわ」
「うちの義姉に、ですか?」
「ええ、だって生まれてくる子はベルの甥っ子か姪っ子なわけでしょ? 血縁関係はないけど、遠からず親戚になるわけだし」
「……親戚」
そう言われてベルは思わずルキの顔を見る。ルキもなんと言えばいいのか困った表情を浮かべ、沈黙を保つ。
「お義姉様がご出産を終えられたらきっとベルはしばらくご実家に戻るのよね? どれくらい滞在するのかしら?」
「えっと……まだ未定です。生まれてくるのはまだ先、春頃のことですし」
予定を聞かれたベルは歯切れ悪くそう答える。ベロニカが出産する頃にはもう、ルキとの関係を精算していて、当然この公爵邸からも出ているはずだ。
「そうよね。あ、私もストラル伯爵邸に会いに行ってもいいかしら?」
ベルにも赤ちゃんにも会いたいしとシルヴィアはキラキラした目でそう尋ねる。
「え? うちにですか?」
「ダメ……かしら?」
驚いた声でベルに聞き返され、シルヴィアはしゅんとした表情を浮かべる。
「ベルが、いつも話してくれる素敵な伯爵夫人にお会いしたいのもあるけど……ベルがずっと帰って来ないの寂しいなって」
「……シル様」
口籠もりながらそう話してくれるシルヴィアを見て、ベルは目を伏せる。
彼女はこの契約婚約があと3ヶ月ほどで終わる事を知らない。
ベルがルキと結婚することもなければ、ブルーノ公爵家とストラル伯爵家が親戚になることもない。
そして、次に自分がここから出て行ったなら、2度と公爵家の敷居を跨ぐ事がない事も。
「……聞いておきます。義姉の都合もありますので」
産後は大変だと聞きますからと言ったベルに、ありがとうと満面の笑みを向けるシルヴィア。
そんな彼女を見ながら、ベルはどうしようもない罪悪感を覚える。自分がいなくなった後で、彼女は何を思うだろう。
ベルがそう思っていると、
「あ、そうだ。私もベルにプレゼントがあったの」
そう言って、シルヴィアはメイドに指示してコスモスの花束を持って来させる。
「庭のコスモスが綺麗だから、特別に作ってもらったの」
最近帰りが遅くてお散歩できないでしょうとベルに差し出す。
差し出された花束を一瞬悲しそうな目で見たベルは、
「……ベル? どうしたの?」
そう言われて思わずシルヴィアを抱きしめる。
「シル様のご友人になれて、嬉しいなぁって思っただけです。私は、シル様が大好きですよ」
「知ってるわ。私も、ベルのこと好きよ」
私達相思相愛ね、と笑うシルヴィアの髪を撫でて、
「それは、とても光栄ですね」
とベルは優しく笑った。
トントンっとノックがしたので、ベルはそっとドアを開ける。
「どうしたの? ルキ」
もう寝ようかと思うほど遅い時間に彼が尋ねてくる事は稀だ。
不思議そうに尋ねたベルに、入っていいかとルキは尋ねる。
招き入れたルキの手には紅茶の缶があり、ベルにそれを差し出す。
「えーっと、淹れろってこと?」
「本当は、ベルがしてくれたみたいにカモミールミルクティーとか作ろうと思ったんだけど」
「ど?」
「淹れ方が分からなくて、茶葉無駄にしてベルから"食べ物を粗末にする人は嫌いです"って怒られる未来しか見えなかった」
だから素直に茶葉を持って来てみたと言うルキにベルは肩を震わせて笑う。
「分からないなら、メイドさんに淹れてもらったの持ってくるとか、あったじゃない……茶葉って。しかもカモミールじゃないし」
おっかしいと若干涙目になって笑うベルは、
「そんなに笑わなくても。自分で淹れてあげたかったんだよ。できなかったけど!」
温度とか手順とかあるんでしょとやや不貞腐れたようにルキはそう言う。
「ルキって変なとこ素直よね」
クスクス笑ったベルは、
「この部屋は本に囲まれてるから温かいのは私の持ち込みのインスタントしか入れられないかな。厨房で飲み物淹れて来ようか?」
「……インスタントでいいよ。それは今度使って」
そう言われたベルはありがたく茶葉を受け取り礼を述べる。
「それで、どうしたの?」
「ベルの様子が気になって」
ここ数日どこかぼんやりしているところ。
普段なら食事を残さないベルが、食事をあまり取らなかったところ。
おかしいところはいくつもあった。
「俺はどこまでベルの気持ちに踏み込んでいい?」
ルキは優しくそう尋ねる。
「言いたくない事を無理矢理言わせたくはないけど、俺はベルが心配だよ」
ルキはベルと作成中の恋人の真似事やる事リストを取り出して、トンっと指でさす。
『すれ違わないように、気持ちはキチンと言葉にする。ただし強要はしない』
「俺ではベルの力になれない?」
「……ルキは、本当に変わったね」
「え?」
「こんなふうに、相手に踏み込んでくるヒトではなかったでしょう?」
ベルは静かに言葉を口にする。
「俺は、ベルが笑っているといいなって思う。だから、話が聞きたくて」
ベルが許してくれるなら、彼女に近づきたくて。触れたい、と思うのだ。
その気持ちは、日増しに大きくなっていて、無視する事はもうできない。
じっと見てくる濃紺の瞳を見ながら、
「……ママが死んだ時の事を思い出すの。この時期になると。だからこの時期は領地に行くんだけど」
今年は無理かな、ってとベルは淡々と告げる。
「ルキも忙しそうだし、夜会とか出なきゃでしょ。契約婚約者を引き受けている手前。勝手に領地には行けないでしょ? 少し気になってただけだから。聞いてくれて、ありがとう。昔からこの時期は少し不調になりやすいだけだから」
大丈夫とベルは笑う。
そんな彼女のアクアマリンの瞳を見ながら、以前ハルから、
『姉さんは、全部ひとりで抱えちゃうから』
と言われた事を思い出す。
平気なフリは、ずっと自分もしてきたから分かる。フリは、フリでしかなく、決して大丈夫なわけではない、と言うこともルキは知っている。
「ベル、行こうか」
ルキはそっと指先をベルに伸ばし、彼女の頬に触れる。その頬はヒヤリと冷たくて、ルキは何だか苦しくなった。
「行くって」
「ストラル領。俺も行っていい?」
ルキの申し出にベルは目を見開く。
「ダメだよ。今、ルキ忙しいでしょ」
そう言ったベルに、
「仕事は何とか調整つけられるから。3〜4日くらいなら」
大丈夫とルキは言い切る。
「いや、うち馬車で3日はかかるんだけど」
時間足らないよ、とベルは却下するが、
「空路で行けば数時間でしょ?」
とルキは言い返す。
「一般利用の直行便が存在しないだけで、あるよね? だってストラル伯爵が成り上がったのは飛竜による空路開拓なんだから」
詳細全部伏せられてるからどうやって飛竜を手懐けたかまでは分からないけど、とルキはそう言う。
「飛竜の空路開拓。お兄様が関わってるの伏せてあったはずなんだけど、どこ情報?」
「公爵家の情報網」
なるほど、と納得したようにベルはため息をつく。
「そんなわけで伯爵を紹介して欲しいな。交渉は俺がするから」
どのみち他領に足を踏み入れるなら一報必要だし、というルキにベルはしばらく考えて、
「私から話すわ。飛竜の事は内緒なの。黙っていてくれると嬉しいな」
と言った。
「すごい発見だろ? 大々的に伯爵名義で公表すれば利益だって名誉だって独り占めできただろうに」
今のように成金貴族だなんて言われる事もなかったのに、なぜそうしなかったんだと不思議そうにそう尋ねるルキに、
「そんなことしたら、周りがうるさくて仕方ないじゃない。ただでさえ陞爵の話が来てお兄様嫌がってるのに」
うちは借金返せただけでいいのとベルは笑う。
かつてストラル伯爵は飛竜による空路を広く一般に普及させることと飛竜の保護、自分が関わっている事を伏せることを条件として、飛竜飼育の研究結果と空路使用権を国に売った。
それはほんの一部の人しか知らないこの国の謎の1つ。
「何で陞爵嫌なの?」
「陞爵したら"伯爵"って呼んでもらえなくなるからよ」
意味がわからないと言う顔をするルキにベルは、
「なんか、ちょっと元気出た。ありがとう」
と礼を言ってクスッと笑い、ルキが頬に触れていた手に自分の手を重なる。
そんなふうに笑うベルを見ていたら、ぎゅっと胸が苦しくなり心音がうるさくて、急に彼女の事を抱きしめたくなる。
「ルキ?」
首を傾げたベルに手を伸ばしたくなる衝動を抑えたルキは、
「せっかくだからストラル領、案内して。ベルの事が知りたい」
と静かにそう言った。
「じゃあ面白いところ、案内してあげる。公爵領みたいに栄えた街ではないんだけど、自然はいっぱいで今は良いところだから」
そう約束したベルが、兄の許しを得てストラル領に里帰りすることになったのは、それから1週間後の事だった。
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