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その7、伯爵令嬢と本採用。(2)

「ベルは、このあと(婚約破棄後)どうする気なんだ?」


「どうもしません。婚約破棄後はきっと、ルキ様にお目にかかる事は2度とないと思いますし」


 そうキッパリ言い切るベルに驚いて、ルキは濃紺の瞳を大きくする。

 婚約破棄するとは言えせっかく公爵家と縁ができたのだ。逞しいベルのことだから、夢を叶えるために今後も公爵家との繋がりを利用していくんだろうと勝手に思っていた。


「私はただの契約相手ですよ? それも素行のよろしくない」


 そんなルキの様子を見て苦笑したベルは、あなたは私にとって、天の上の人なんですと静かに話す。


「あなたはいずれ公爵家を背負って立つ人間なのに、婚約破棄した相手と会うような事があったらいらない噂を立てられますよ?」


 主に私が。

 それじゃお互いのためにならないでしょ? と言ったベルは、婚約破棄後は2度とルキと会うつもりはないとはっきり告げた。


「ルキ様は私にまともな縁談がないかもなんて気にしてますけど、それ結局貴族間の話でしょ?」


 あなたの尺度で測られても困りますと、ベルは淡々と言葉を紡ぎ出す。


「結婚には興味ないです。今の私の家族以外の誰かと一緒に生きていく事に、私は意味を見出せない」


 それが今のベルの確かな気持ちだった。


「でも、もし私が誰かと一緒に居ることを選ぶ日が来たら、きっとそれは利権の絡まない相手です」


 例えば、なんのしがらみもない一般庶民とかとベルはにこっと笑ってほら、なんの問題もないと言う。


「市井に降るつもり……なのか?」


 ルキは信じられないものを見るかのように、アクアマリンの瞳をまじまじと覗き込んでそう尋ねる。


「私、その表現好きじゃないんですけど、降るも何も私は元々一般庶民ですよ。血の半分繋がった兄が異様なほどお人好しだったから、運良く貴族の末席に名前を連ねているだけの、ね」


 元の生活に戻るだけですと、ベルはなんて事ないようにルキの質問を肯定する。


「まぁ、あとは兄のためも少しあるかな? 兄は世間であれこれ言われているような人じゃなくて、ただ人よりお人好しで、お義姉様(自分の妻)のことが大好きで大切なだけなんです。だから、私の婚姻なんかで政治的なアレコレに巻き込ませたくない、っていうか」


 巻き込まれたらその先で新たな事故が発生しそうですし、とおかしそうにベルは笑う。

 実母がなくなり引き取られた先は、元の生活と同等かそれ以上に貧乏な伯爵家で、贅沢なんて全くできなかったけれど、慎ましくても楽しい日常だった。

 借金がなくなって成金貴族と呼ばれるようになってからも、ストラル伯爵家は大きくは変わらない。

 相変わらず使用人はおらず、各々好き勝手にやっているまるで貴族らしくない生活スタイル。

 そしてそれが性に合ってあると思う自分には普通の貴族の妻なんて絶対にできないとベルは思う。


「まぁ、だから別にいいんです。貴族らしい生活なんて、私には合わないし」


 根が貧乏性ですから、そう言って窓の外に干してある紅茶の出涸らしを指さす。こんな事をする貴族なんて、きっとそういないだろう。


「……ちなみに、契約の延長は?」


 ベルの話を聞き終えてルキは静かに尋ねる。


「そこに記載してある通りです」


 ベルはトンっと指でさす。


「9ヶ月後の末日を待って、契約は終了です。お互い、目的を達成していても、していなくても」


 嘘の婚約者なんて、1年が限界ですよと苦笑したベルは、


「契約期間満了後は速やかに婚約破棄願います」


 と更新も延長もしない事をはっきり告げた。


「……承知した」


 ルキは少しだけ考えて、了承を告げると契約書と婚約申請書、婚約破棄申請書の記載項目を綺麗な字で埋めていった。


 話が終わり、ルキと共にリビングルームに足を運んだベルを見つけたシルヴィアは嬉しそうに寄ってくる。


「ベル、今日はメイド服じゃないのね! もしかして、お兄様とデート?」


 揶揄うようにそう言ったシルヴィアの頭を優しく撫でたベルは、


「違います。ちょっとお出かけの用事がありまして」


 夕食時までには戻りますねと告げる。


「どこか出かけるのか?」


 基本的にベルと一緒に行動することがないルキは、そう言えばさっきも用事があると言っていたなと思い出す。


「ああ、不動産屋に鍵を受け取りに。引越しますので」


 言ってませんでしたっけ? とベルは当たり前のようにそう口にする。

 ベルの引越し宣言に、


「はっ?」


「え?」


 測ったように二つの声が重なった。


「なんで? なんで、ベル引越すの?」


「ふふ、実は試用期間の3ヶ月を経て正式にルキ様と婚約する運びとなりまして」


「え、あっ、うん、おめでとう」


「反対されないのです?」


「うん、もうこの際それはどうでもいい」


 ベルが来た当初は絶対認めないからと宣言していたシルヴィアだったが、もはや兄の婚約などどうでもいいレベルになっていた。

 それほどまでに懐いてくれた事を嬉しく思いながら、ベルは膝を折ってシルヴィアと視線を合わせる。


「申し訳ありません、シル様。慣例に則って婚家で暮らす期間は3ヶ月となっておりますし、その期間は満たしましたので」


 これ以上ここでご厄介になるわけには参りませんとベルは優しい口調でそう告げる。


「……伯爵家に、戻るの?」


「いえ、せっかくなので一人暮らししようと思って」


「そんな! じゃあうちにいればいいじゃない」


 泣きそうになりながら引き留めるシルヴィアに、ありがとうございますとお礼を言ったベルは、


「私がここに留まる理由はもうないのです。ご理解ください」


 と丁寧にシルヴィアの申し出を辞退した。


「お兄様、なぜ止めないのですか!?」


 それでも納得できず、シルヴィアはルキに濃紺の瞳を向ける。


「いや、今初めて聞いたし」


 確かに試用期間過ぎれば引き留める理由も特にないしなと、ルキがあっさりとそう言ったので、シルヴィアはこれが覆らない決定事項なのだと知り、ぎゅっと手を握りしめて分かったわと小さくつぶやいた。


「まぁ、婚約者っぽく定期的に会いに来ますので!」


「絶対よ? 毎週来てくれないと嫌だからね!」


 とそう訴えるシルヴィアに、じゃあなるべくルキ様のいない時にと笑うベルを見て、婚約者って一体なんだろうなとルキは苦笑した。



「……ベル、ちょっといいか?」


 夕食後、ルキは再びベルの部屋を訪ねた。


「どうぞ〜」


 ベルはいつも通り気さくに中に通したが、昼とは違いその部屋は元通りにガランと片付いていて、いつでも出て行ける状態になっていた。


「荷物、これだけ……か?」


 ベルが来た時と同様にそこにはカバンがひとつあるだけで、特に手伝う事がないと悟ったルキは備え付けの椅子に腰掛けた。


「そうですねぇ、元々必要最低限で来ましたし」


 ここにいる間はほぼメイド服でしたしねとベルは笑う。

 そう言われれば屋敷内でベルの私服姿はほとんど見ていない気がすると、シンプルなワンピースに羽織りをかけている今のベルの姿が新鮮に見え、いけないものを見た気がしてルキはベルから視線を外した。


「引越し先って、どこなんだ」


 そういえば聞いていなかったとルキはベルに尋ねる。


「ああ、ウェスト街です」


 聞かれたベルは物件情報を取り出してルキに見せた。


「ベル、ここどう見ても貸店舗なんだけど」


 差し出された資料に目を落としたルキは、本当にここに住む気かと眉根を寄せる。


「賃貸としてはなかなかの優良物件ですよ。2階のここを当面の棲家にしようと思って」


 が、ベルは当たり前にそう言って良いでしょと楽しそうに笑った。


「……いや、どう考えても不便だろ」


「一応水回りついてるし、職場でシャワー借りればいいし、今も半分くらい職場に住んでるようなものだし」


 特に不便は感じないですねと言い切るベルを見て、まぁ3ヶ月物置き部屋に住み着いたベルならそうなのかもしれないとルキは無理矢理自分を納得させた。


「……なんでここ?」


「立地がいいんですよね〜。下級貴族御用達のお店が並んでますし、治安もいいのでふらっと学校帰りの裕福層の庶民のお嬢様達が遊んで行くような通りも近いし」


 実は前から目を付けてましたとベルはルキから物件情報を回収して、楽しそうにこれからを語る。


「シルヴィアお嬢様のドレスだけだと厳しかったんですけど、この前のルキ様の職場イベントで知り合ったお姉様方から不要ドレス買い取れましたし、そろそろ保管場所も兼ねて店舗借りようと思ってたんです」


 だから良い機会かなって、と楽しそうに語るベルの未来には当然ルキはいない。


「あとは私好みのデザイナーさんとお針子さんの確保が問題ですね。あてはあるんですけど、なかなか頷いてもらえなくて」


 とりあえずできるところからはじめてみようかなってと着々と前に進んで行くベルを見ながら、分かっていたことなのに何故こんなに気持ちがざわつくんだろうとルキは目を伏せる。


「……君がいないと、シルヴィアの機嫌取るのが大変だな」


 だが、ルキはベルを引き留める理由も、その言葉も持っておらず、そう口にするのが精一杯だった。

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