花火と涙ぼくろ
八月の中旬、夏が明確な本腰を入れた猛暑の夜。
俺は何度考えても後悔していた。兵庫南西部にある姫路の港で人生で初めて小舟に乗った。大学四回生でフェリー以外の船に乗るなどあまり見ないことだろう。
「ほら大学生! さっさと火薬詰めろ」
「へい大将」
反町教授の紹介で姫路みなと海上花火大会に参加していた。姫路港で開かれる我が地元の祭りは今宵、真夏の夜の匂いで溢れている。大学四回生ということで卒業論文を書かねばならぬ俺は、テーマ決めの段階でつまづき、果たして論文なんて書く意義があるのか、書いたところで女子からモテるわけでもお茶に誘われるわけもない上に、インスタを開けばやれフェスや、やれUSJやらの投稿で埋め尽くされていた。俺がバカらしくなるのも無理くらぬ話である。そうして途方に暮れていた。
「そろそろ書かないとヤバいよ君」
反町教授は自身の研究室から落第者を出したくないがために俺を追い詰めた。
「だから前に提出した『女性の涙ほくろの神秘について』のテーマでいきますよ」
「こういうの普通社会問題を取り上げたり、地域活性化を目指すようなものなんだよ。涙ぼくろの神秘については個人的に興味はあるけどね。けどそれで原稿用紙200枚以上も書けないでしょ」
甘く見積もられたものである。俺が本腰を入れれば涙ぼくろの神秘の解明、その一助となるだろうに。涙ぼくろのフェチズムにおいて大学で俺の右に出る者はいない。だというのに、俺がようやく捻り出したテーマを反町教授は一向に承諾しなかった。
「姫路花火師協会にツテがあるからそこへ行ってきなさい。何かいい案が浮かぶだろ」
「妙なところにツテがありますね。でも教授。俺は花火に興味はありません。それより涙ぼくろを----」
「いいから行ってきなさい。ここ4、5年参加者がいなくて申し訳なかったんだ。ほら、僕を助けると思って」
「なら先に俺を助けてください」
しかし反町教授は俺の頼みを無視して自分の頼みを俺に押し付けた。俺ほどの男であれば教授の頼みなんぞ風船にしてはるか彼方の空へ飛ばすことも容易であったが、「卒業したくないなら別にいいけど」と拗ねられたので渋々折れた。
黒い海の上をぷかぷかと浮かぶ小舟には花火を打ち上げる筒が並べてあった。ハッピを来てタオルを首に巻き、本部の合図を待って花火を打ち上げる。一年でもっとも花火師が輝く一夜。紹介された大将も気合が入っていた。
「この時のためにわしは生きてる」と豪語する大将の気迫は、大学で変幻自在に闊歩する伝説の五回生、浄蓮寺先輩と同等の迫力があった。さすがの俺も全身が強張る。
「大将、火薬詰めました」
大将が確認すると筒の中に無骨な手を突っ込んだ。
「ダメだダメだ。もっと奥に入れろ。これじゃシケたもんになる」
熟練の技を間近で見ても、俺は論文の参考になるようなアイデアは一つも浮かばなかった。そんなことよりも港で立ち昇る焼きそばの香りに気を取られる。浴衣を着てキャッキャと騒ぐ美人ばかり目で追っていた。
「さて、もうそろそろ打ち上げだ」
大将は小舟の上に立って本部の小さな明かりを見つめた。
「大学生、これで論文を書くんだろ?」
「いえ、まだわかりません」
「なんじゃそれ。じゃあ何しに来た?」
「俺が聞きたいです」
大将は生意気な大学生だなと睨みつけてきた。そして本部テントから眩しいライトが三回点滅した。
「合図だ。火をつけろ」
俺は導火線にライターで火をつける。大将は筒をがっしり掴んで口を夜空に向けた。
「火をつけたら離れろ。死ぬぞ」
火のついた導火線がじりじりと赤く弾ける。筒の底から伸びていた導火線の根本へ赤い球がたどり着いた。散った火花の音が数秒やんだあと、筒の口から光の球が夜空へ昇った。大砲のような鈍重の音が響いて、赤いを尾を引きながら巨大な花火が爆散した。小舟の上は巨大なキノコが突如現れたような白煙がもこもこと舞い上がり、俺は咳き込んだ。
大将の花火が上がったのを皮切りに、周囲に浮かぶ小舟から次々に花火が打ち上がる。大将の血から叫ぶ声が爆発音の隙間を突いて耳に劈いた。火花が散る。鈍い爆発音があちこちで響いて白煙はむくむくと成長していき、小舟は火薬の匂いと煙で充満して大将も周りの小舟もよく見えなくなっていた。
「ほら、次だ次!」
大将の声が俺にだけ届いた。返事をする暇もなく、俺はすぐに花火の筒を用意して導火線に火をつける。わずか二十分の間、永遠に思える時間の中でひたすらに火をつけ続けた。腹の底が爆発音でドンっと震える。俺は何も考えることなく、夜空に咲く花火の音と熱に酔いしれた。
目玉である花火大会が終わった。
大将は小舟を岸につけて、美味そうにアメスピへ火をつけた。ゆるい煙がゆらゆらろ立ち昇る。
「どうだった大学生?」
大将は真顔で俺を見る。「初めての打ち上げは」
「記憶にないです」
「そうだろう」
ここまで不本意にやってきた俺は煙くさい己の体に嫌気をさしながら煙草を吸った。
最後の花火を上げる時には火花が飛び跳ねすぎてまつ毛が焦げた。そのくせ得られたものは皆無である。大学四年間とまったく同じだ。時間とまつ毛を無駄に費やしただけである。
「不満そうだな。若いくせいにわしより年寄りみたいだぞ」
「大将は満足そうですね」
「ついさっきまではな。わしの一年は今夜終わった」
花火を打ち上げる前までは嬉々として年甲斐もなく瞳を輝かせていた大将の顔は、パチンコに足げく通う我が父が敗残した時と遜色ない顔色をしていた。
「しかしどうだい。花火を上げるっていうのも命懸けだろ?」
「そりゃあ火ですから。まつ毛も燃えましたし」
さて、どうやって話を切り上げて颯爽と立ち去ろうか。
俺は思案した。ここで若者のくせに真理めいた一言でも花火のごとくこの老人にぶちかまして帰ってやろうか。そんな渾身の左フックを考えていると、大将はおもむろに立ち上がって「焼きそばでも食っていけ」と言った。俺は今日何も食べていなかったので、食ってから帰ってやろうと思った。
本部テントに報告を終えて、大将と一緒に屋台が立ち並ぶ港へ入った。まだ人がちらほらいたが、花火が終わったこともあって港から街へ出る道路には人集りの列が川のように流れている。
「焼きそば二つ」
大将は顔がきくのか、焼きそばの店主は「大将お疲れさまです」と言って、目玉焼きをサービスで乗せた。
二人で焼きそばをすすっていると、通りすがりの女性が声をかけてきた。
「花火すごかったです」
その女性は二人連れの涙ぼくろの女性だった。声をかけてきた女性は両目の下にぷっくりと二つの黒みがかった茶色いほくろが妖精のように佇んでいる。
「ミナちゃん。来てくれたんだね」
大将が涙ぼくろの女性に声をかける。
「大将もお元気で。でももう来年は厳しいんじゃないですか?」
「腰の調子次第だが、なーに死ぬまでわしは現役だよ」
ミナちゃんという女性は大将がよく行く本村和菓子屋の娘であり、懇意にしているそうだ。俺はあまたの女性との縁をドブに沈めた生粋の堅物であるからそうした縁を持つ大将に心底羨んだ。
ミナさんは俺の顔をじっと見て朗らかな笑みを浮かべた。
「この人が前に言っていた後継の方ですか?」
鈴の音のような柔らかく高い声は明らかに経験のない男の心を鷲掴みにするような破壊力に満ちた魅惑的なものだった。俺はそんな安易な魅力に足元をすくわれるような軟弱な男でない。毅然と全身に力を込めて、ただ沈黙した。
「違う違う。こいつは大学からの手伝いだよ。前に言っていた弟子は逃げた。株が当たったとかなんとか言ってな」
「それじゃあ来年はもう大将の花火見れないのかな」
「だから死ぬまで現役って言ってるだろ」
仲がいいのだろう。二人はニコニコと笑った。ミナさんはくるっと俺に首を向けると、「大将の後を継いでもらえませんか?」と冗談を口にした。
稀代の硬派である俺は、初めて胸が締め付けられた。
「俺でよければ是非」
気がついた時にはそう言っていた。二人は目を丸くして、「冗談ですよ?」と苦笑する。だが俺は反射的に「花火好きなんです」と嘘を吐いた。花火なんぞ微塵も興味がない。まつ毛だって燃えた。しかし、この涙ぼくろ美人ミナさんと関われるなら、どんなに死と隣り合わせであっても見事に炎の花を咲かせて見せよう。
「お前本気か?」
大将は訝しんだ。「花火嫌いだろ?」
「ミナさんの来年の夏を守るためならなんてことありません」
頭の後ろをボリボリ掻いた大将は、「またケッタイな奴が来たもんだ」と言って、俺を弟子にした。
ミナさんは困ったような、でも嬉しそうな笑みを浮かべて「来年、楽しみにしてますね」と言った。
大学に戻った俺は恥辱の頂に位置する教授に頭を下げた。
「ということで、単位をください」
「君は馬鹿なのかい?」
華麗で見事な涙ぐましい事情を披露し、その上この俺が頭を下げた。だというのに教授は眉を顰めて単位贈与を断っていた。
「お願いします。卒業しないと大将が弟子にしてくれないんです」
「あの人にはお世話になってるし、君が卒業に前向きになったのは嬉しいよ? でもね、だからと言って単位だけ寄越せはないよ。弟子になるんだったらこういう地味なところでも踏ん張らないと」
「俺はすぐにでも花火の作り方とミナさんの和菓子屋へ通い詰めないといけないんです。論文なんぞ書いてる暇はない」
「だから頑張れと言っているんだ。たわけめ」
日が沈むまで続いたこの平行線は崩れることはなかった。俺は一ヶ月間屈辱的にも頭を下げ続け、教授の根気をへし折ってやろうと画策した。教授のお気に入りの茶葉などを隠したり、あえて研究室内で永遠の片思い男、村田を焚き付けて男女の痴情のもつれを引き起こすなど、教授を追い詰めるためあらゆる暗躍を繰り返した。しかし教授が折れることはなく、むしろ度重なる不運と問題に生き埋め状態となり、交渉自体が不可能なほど弱りきってしまった。
「どうしたもんか」
九月の終旬にさしかかり、俺は途方に暮れた。週末には卒業論文の中間発表がある。ここで何かしらを発表しなければ俺に未来はない。卒業の門は閉ざされ、大将は俺を受け入れず、どんな顔をしてミナさんのいる和菓子屋へ行けばいいかわからん。
俺はずっと研究室の戸棚に仕舞い込んでいた唯一の研究を出すことにした。片手間で書いたと言っても誰も信じないであろう不朽の論考「涙ぼくろの神秘について」。
広々とした大講堂のプロジェクターで俺が披露した論文は、想像を絶する反響を呼んだ。誰もが地球温暖化やら日本に増えすぎた森林の処理やら、性体験者の著しい減少など、今後の日本を憂う問題を列挙するなか文化的価値の高い俺の論文は寝ていた教授の目を覚まし、スマホを触っていた学生の頭を上げて、結果聴講者すべての瞳から涙を流させた。
俺の暗躍で疲弊した反町教授はここ最近の記憶がなかった。俺が大傑作論文を提出した後になって方々から賞賛の声を浴びせられて「何があったんだい?」と困り果てながら学長の評価を上げた。
俺の論文の完成度は他の学生を圧倒し、もう手を加えるべきところはなかった。大将の元へ顔を出した後、俺はミナさんの和菓子屋へ向かった。ショーケースに色あざやな花の形をした饅頭が並べられた店頭で、ミナさんがエプロンを着て立っていた。
「あなたは大将のお弟子さん」
「初めまして。お弟子です」
「来てくれたんですね」
「大将におつかいを頼まれて。いつもの饅頭が欲しいと言っていたんですが」
「あー、こしあんの饅頭ですね。ちょっと待っててください」
饅頭を受け取る。なんでもいいからテキトーに話し、俺の小粋なトークを颯爽と披露して彼女への評価を上げてやろうと話題を模索したが、何も出てこなかった。おそらく天が俺という人間の身にはあまりある能力に制限をかけてきているのだろう。おのれ神め。そんなに俺が羨ましいか。
「それではまた来ます」
ここで無様で実りのない会話をする方が彼女のためにはならないと思い、俺は立ち去った。
「また来てください」
ミナさんは慣れたように微笑んで手を振ってくれた。
それから彼女の姿は見ていない。聞いたところによると、溜まり溜まった資金を散財してあちこち旅行に出掛けているそうだ。俺が行くたびに店におらず、俺が行かない時に限って店番をしているらしい。大将がたまに買い出しに行ってくれる時には毎回いるらしい。
そして俺は難なく卒業単位を確保し、晴れて大学を卒業した。
卒業者でも異色の花火師見習いになった俺を友人知人教授含めて驚嘆し、「お前みたいな疫病神が会社に行かなくてよかった」とツンケンした賛辞を贈られた。
再び迎えた姫路みなと海上花火大会で俺は大将と共に花火を打ち上げた。昨年と同じような人の賑わいの中にぽつりと浮かぶ青白い浴衣姿を見つける。その女性は手を振った。
顔は見えないが俺は誰だがすぐにわかった。大玉の花火が入った巨大な筒を構える。大将に渡して俺は火をつけた。
白い尾を引いて炸裂した真っ赤な花火の音が鼓膜を突いた。白煙が頭上に溜まり、大将は「グッド」と真顔で言った。
港に戻るとミナさんがやって来た。菫色の薄い浴衣を来ていた彼女に一瞬目を丸くした俺は「似合ってます」と言葉を送った。
1作目「百匹の猫」より11作目