01.
「公爵令嬢エデルミラ・イル・アンドラーデ。今日を限りに君との婚約を破棄し、代わりにこのダフネ・レオンティカ男爵令嬢を私の婚約者とする」
その声は厳かでありながら、人々を静まり返らせるに十分な衝撃でもってその場に響いた。
「まあ、よりにもよって成人祝いの場で婚約破棄だなんて……」
「こんなおめでたい席で、前代未聞ですわ。しかも男爵令嬢だなんて」
「確かあのダフネ嬢と仰る方、数ヶ月前にレオンティカ男爵が養女としてお迎えになった方では?」
「そんな、どこの馬の骨ともわからぬ娘を婚約者としてお迎えになるというのか?」
人々が驚き、ざわめくのも無理はない。
今日はイストリア王国王太子、シルヴィオの二十歳の誕生日。王宮の広間には大勢の貴族たちが集い、彼の成人を祝っている最中だ。
そしてこの後には、一年後に控えた王太子の結婚について、国王の口から正式に発表が行われるはずだった。
それなのにシルヴィオの隣には下級貴族の――それも最近養女になったばかりという令嬢が佇み、不安そうに彼に縋っている。普段冷静沈着で滅多に表情を変えないことで有名なシルヴィオが、その少女にだけは優しい笑みを向けているのだ。
「シルヴィオさまぁ、わたし怖いですぅ」
「大丈夫だ、ダフネ。私が側にいる」
婚約者ですら、公の場では彼のことを『殿下』と呼ぶ。
だが、このダフネという少女はなんの躊躇いもなく甘えた声で王太子の名を口にし、王太子自身もそれを咎めようとはしない。
目の前で婚約者の裏切りを見せつけられ、アンドラーデ公爵令嬢の心痛はいかばかりか。
幼い頃から王太子妃教育に励み、血の滲むような努力で己を磨き上げてきた彼女のことだ。きっと取り乱し、泣いて縋るに違いない。
人々の憐れみまじりの視線は自然、エデルミラへと向けられる。
「まあ……、殿下」
しかし人々の予想に反して、エデルミラは音もなくゆったりとした動作で扇を閉じると、優雅な笑みを浮かべてみせた。
「失礼ながら、よく聞こえませんでしたわ。今、なんとおっしゃいましたの?」
小首をかしげて問いかける姿には、微塵の動揺も浮かんでいない。
なんと健気な、と数名の婦人が涙する。
きっと懸命に泣くのを堪え、未来の王太子妃として誇り高い姿を見せようとしているのだ――と。
「君との婚約を破棄すると言ったんだ」
「婚、約……破、棄……?」
改めてシルヴィオから婚約破棄を突きつけられ、エデルミラはまるで初めて聞いた言葉でもあるかのように、一音一音確かめるように発音する。
そしてしばらく考え込んだのち、「ああ」と納得したように頷いた。
「わかりました」
「わかってくれたか」
「ええ。つまり、殿下はわたくしの気を引こうとなさっているのですね」
弾むような声だった。
人々が一様にポカンと口を開くが、一番わけが分からなかったのはシルヴィオだろう。
「君はまた――どうしてそうなるんだ!」
唸るような声には、困惑とも怒りともつかない複雑な感情が滲んでいた。
「だってそうでしょう? そんな、どこのどなたとも知れないような娘を連れてきて突然婚約破棄したいだなんて……。わたくしを嫉妬させたかったからに決まってます」
なんと前向きなのだろう。この状況で、よくぞそんな答えを導き出したものだ。
その場にいる誰もが、きっとそう感じたに違いない。
感心と呆れ、そして畏れにも似た視線がエデルミラへ向けられる。
「そんな回りくどいことをなさらなくとも、わたくしは身も心も命も全て殿下のものですわ」
「そんなものいらないのだが」
「うふふ、照れなくてもよろしいのですよ。わかっております。殿下は愛情表現が苦手なお方ですものね」
「違う」
「こんな不器用な方法でわたくしの愛を確かめようとするなんて、うふ、うふふふ。可愛い方」
「っ、違うと言っているだろう! 一体なぜ君はいつもいつもそうなんだ!」
頬を染めて一人喜ぶエデルミラに、シルヴィオがとうとう声を荒らげる。
その言葉を聞いて、誰もが思った。「いつもこうなんだ……」と。
「私はダフネを――愛しているんだ! だから、君と結婚するなんて考えられない!」
「シルヴィオ! 先ほどから一体何を言っておるのだ!」
それまで黙っていた国王がとうとう椅子から立ち上がり、息子へ向かって叱責の声を飛ばす。
まさか息子がこんな暴挙に出るとは夢にも思っていなかったのだろう。彼の顔は、遠目にも明らかなほど青ざめていた。
「今すぐ取り消し、アンドラーデ公爵令嬢に謝罪するのだ!」
「いいえ父上、すでに決めたことです。絶対に取り消しません」
だが、親の心子知らず。取りなしも虚しく、シルヴィオは毅然とした態度で父王の言葉を拒絶した。
そしてダフネという少女の肩を抱き寄せ、真っ直ぐに父を見据える。
「エデルミラと結婚せずに済むのなら、私は廃太子となっても構いません」
「何を愚かなことを――」
国王の額に青筋が浮かび、今にも血管が切れるのではないかと思われた。
しかしその時、エデルミラの高笑いが緊迫した父子の間に割って入る。
「うふ、うふふふ……!」
「……何がおかしい」
シルヴィオから低い声で問われ、エデルミラは優雅に頭を下げた。
相も変わらず、婚約破棄されそうになっている悲壮感などどこにも見当たらない。むしろ頬を赤く染め、恍惚とした笑みさえ浮かべているほどだ。
「申し訳ございません。憎悪と愛情は紙一重と申しますでしょう? それほどまでに殿下に強い思いを向けられていると思うと、ゾクゾクしてしまって……」
「――意味がわからないのだが」
「鈍感なふりをなさってるのもたまらないですわ。わかりましてよ。駆け引きは恋人同士にとって、重要なスパイスですものね」
「話が通じなさすぎる……。医者でも呼んでくるか? 頭の」
身をくねらせ悶えるエデルミラに、シルヴィオが珍獣を見るような目を向ける。
もはや怒りや呆れを通り越した、何か得体の知れない感情が彼の胸に去来していることは間違いない。
(なあ、アンドラーデ公爵令嬢ってあんな変わり者だったのか?)
(いつも淑女然として振る舞っておられたはずだが、婚約破棄のショックで頭のねじが飛んでしまわれたのだろうか)
そんな若干無礼な囁き声が至る所から上がる。
もちろん聞こえていないはずはあるまいが、当の本人はどこ吹く風だ。
「まあそれはそれとして、殿下には他にご兄弟がいらっしゃいませんので、廃太子というのは無理な話ですわ。そこで、わたくしからご提案がございますの」
至極冷静にそう前置きし、閉じた扇でピシッとダフネを指し示しながら高らかに告げる。
「妻にできないのなら愛人にすれば良いのですわ」




