1.大人げないのは誰? ― 1
イリファスカがこのアトラスカ侯爵家に嫁いだのは、十八歳になった時のことであった。
夫のセルヴェンは当時三十二歳。貴族学校を卒業すると共に王立薬学研究所に勤めに出ていたセルヴェンは、若い頃から生活のほとんどを研究に捧げるほどの仕事人間だった。
セルヴェンは長男であったにもかかわらず、家のことは十個年下の弟のビズロックに任せて、自分は職場近くの寮を借りて独立した生活を送っていた。
しかし、このビズロックという弟もセルヴェンに負けず劣らずの自由人で、自分本位な人だった。
髪も目も薄茶色の長身という身体的共通点以外、アトラスカ兄弟は見た目も考え方も正反対な男児達であった。
美丈夫といった風貌のセルヴェンとは違い、ビズロックは野性味のある厳つい大柄の男だった。
当時は国境に人を食らう凶暴な魔物が多数出没しており、国は国境警備にあたる志願兵を平民から募っていた。
あろうことかビズロックは、侯爵家の跡取り息子という肩書きを隠して勝手に志願書を提出していたのだ。
無論両親とは大喧嘩になったが、ビズロックは文字通り父を肩に担ぎ上げると、ワーワーと騒ぎ立てる使用人達の群れに投げ飛ばして説得し、その身一つで家を飛び出してしまった。
ビズロックが消えたことにより、セルヴェンは実家へ呼び戻されることとなる。
最初に家督相続から逃げだしたのはセルヴェンであったが、研究が波に乗ってきた時分に、“やっぱりお前が結婚して家を継げ”と命じられた彼は内心苛立って仕方なかった。
仕事の邪魔さえしなければ、相手など誰でもいい……そうヤケになるセルヴェンに両親が用意した相手こそ、伯爵家の長女、イリファスカ・ルーゼンバナスだった。
セルヴェンの両親としては、懇意にしている伯爵家の娘であれば、ひねくれ者の息子の我ままも上手く聞き流してくれるだろうと熟考しての人選だった。
だがセルヴェンはまさか十四も年の離れた小娘をあてがわれるとは思っておらず、後日どこからか婚約の話を聞き付けた職場の同僚から、『十四も年上じゃなくてよかったじゃないか』と、からかい交じりの祝福を受けたのが非常に不愉快であった。
そんな周囲への不満がどんどんと高まっていったセルヴェンは、親交を深めるために設けられたイリファスカとの初の顔合わせの席でわざと不遜な態度を取り、悪印象を与えて向こうから婚約を取り下げさせようと目論んだ。
予定の日……侯爵家を訪れたイリファスカを前にしたセルヴェンは、ひと目でその美貌に惹かれてしまった。
顔の形がよく分かるようすっきりと結われた淡い金髪に、透き通るような白い肌、二重まぶたの綺麗なアーモンドアイの中心に浮かぶ魅惑的な色彩の翠眼……まさに息を呑む美しさに、早くもセルヴェンの意思は揺らぎそうだった。
だが、娘の隣に立つルーゼンバナス伯爵の、『姉妹の中で最も美人で淑やかな子です。分をわきまえた良い子ですよ』という、まるで商人が売り出したい品を宣伝するかのような打算的な台詞がセルヴェンの頭を冷やしてくれた。
そうだ、この親子も“うまみ”を求めて父と母の誘いに乗ったのだ。惑わされてはいけない、ここで判断を誤ってはいけない――……。
セルヴェンが一人で葛藤する中、手入れの行き届いた花々が咲き誇る内庭にて茶会は開かれた。
“不遜な態度……不遜な態度……”と、とにかくセルヴェンは思いつく限りの悪い態度を取ろうと決心した。
だらしなく背もたれに寄り掛かり、長い足を偉そうに組み上げ、一口飲み終えたカップはガシャンッ! とわざと音が立つよう荒々しく置いた。
周辺に控える侯爵家側の使用人や警備兵達は、見たことのないセルヴェンの粗暴な態度にギョッとして見ていた。
しかし、イリファスカは彼がどんな荒々しい仕草を見せても、照れたように小さく微笑むだけだった。
成人したばかりの少女は親の都合で決められた婚約者とはいえ、結婚という繋がりに夢を抱いていた。彼女からすれば“おじさん”に分類されるであろうセルヴェンに対しても、お互いを知ろうと内気な性格を押し隠して必死に質問に乗り出た。
『セルヴェン様のご趣味はなんですか?』
『……』
『……あの、セルヴェンさま……? ……えっと……うちのお父様とお母様がですね、セルヴェン様はとても真面目で素敵な人だといつも言って――』
反応のないセルヴェンにより緊張が高まったイリファスカは顔を赤らめながら、それでも何とか会話を成立させようと一人健気に口を開き続けた。
セルヴェンは大きく舌打ちを鳴らすと、話を遮るように勢いよく立ち上がり、怯えるイリファスカを見下ろして冷たく言い放った。
『俺は一秒たりとも時間を無駄にしたくないんだ。このような実のない会話をよくも笑って続けられるものだな? 侯爵家に取り入りたいのなら、せめて相手の顔色を読み取る力くらいは身に付けておけ。俺の機嫌の悪さを知ってなお自分の話を聞かせようなどと、伯爵家の教育について甚だ疑問に思う』
自らの態度を棚に上げ、なるべく酷い言葉を選んで言い放つと、内庭にいた誰もが驚いた様子で渦中の二人を交互に見やった。
イリファスカは良くない注目を浴びて、くしゃりと顔をしかめて目にいっぱいの涙を溜めた。
『わっ、わたしっ……そんなつもりじゃっ……!』
うつむき、声を震わせる少女にセルヴェンは少し悪いことをした気分になった。
だがこれで年の近い別の婚約者を探せると自分に言い聞かせ、彼は黙ってその場を後にした。
イリファスカもこんな壮年のおじさんと結婚して、気を使い続ける生活を何十年と送るよりも、同世代の砕けた仲の青年と暮らす方が幸せに決まっている……。
セルヴェンは本気でそう考えていた。