13.ちゃんと見てる人間はいるモンだ
昼前に私兵となる者を乗せてやって来るというスラータルに、イリファスカは心なしか気持ちを浮つかせながら、午前の仕事を進めていた。
微熱は解熱剤が効いている間は少しフラつく程度のもので、慣れてしまえば手元に意識を集中させることによって、普段と変わらぬ速度で書類をさばくことができた。
問題は“痛み”の方だった。
ふとした時に、針で刺されたような痛みが発疹部分から湧き上がってくる……これには流石のイリファスカもペンを置くしかなかった。
屋敷に着いてすぐに侯爵家お抱えの医師に診てもらったイリファスカであったが、こちらの診断も王都の医師と同じものだった。
しかも、『今の生活を続けるようであれば、これからもっと酷くなることを覚悟しておいた方がいい』と、付け加える注意まで同じ……実際、時間を追うごとに痛みを増す発疹に相当な恐怖心を抱いていたイリファスカは、限界が来ると素直に休憩を取る方向へ切り替えていた。
数十分、あるいは数時間も何もせずに横になっているというのは、それはそれで仕事の残量が気になって心休まらなかったが……『何も考えるな』と言わんばかりに、腕から肩にかけて刺すような痛みが断続的に発生するので、イリファスカは諦めて薬を使用してから寝転がっていた。
この日も二時間ほどの作業の後、ひたすらソファーで横になっていたイリファスカは、やって来たカジィーリアの“コンコン”と控えめなノック音を聞いて、顔を傾けて執務室の扉を見た。
「失礼いたします―― ……お嬢様、大丈夫ですか? 起きられますか? 裏口に私兵の男が立っているのですが……こちらのお部屋まで案内した方がよろしいでしょうか?」
「……いえ、いいわ……知らない人間を不用心に屋敷に入れたくないから……私が裏口へ向かうわ……」
イリファスカは心の浮つきを押し隠して怠そうに体を起こすと、テーブルの上に並んでいた塗り薬の蓋を開けて、赤く腫れた患部にそっと塗布してから、ゆっくりと立ち上がった。
カジィーリアは“私兵の男”と呼んだが、正確にはまだ“私兵候補”の男……いくら腕が立とうと、感覚の合わぬ者と一緒に旅はできない。自分で見定めておきたかった。
イリファスカが一歩踏み出す前に、カジィーリアは主人に向けて静かに手を差し出した。
「お嬢様、お手をどうぞ。お支えいたします」
「ありがとう……ふふっ。今の台詞、騎士みたいだったわね?」
「騎士くらい力があれば、お嬢様を抱きかかえてお運びするのですがねぇ……」
「いやだわ、体の重たさがバレちゃう……」
「こんなガリガリの体で何が重たいですか……!? お嬢様で重かったら、わたくしなんて牛一頭くらいの重さですよ……!?」
いつもならもっと声を張るカジィーリアだが、イリファスカが病んでからというもの、この侍女はこちらを気遣って声量を抑え気味に話すようになっていた。
別に声の大きさなど気にしていないイリファスカであったが、そんな細かな付き人の優しさを噛み締めながら、差し出された手を取って歩き出した。
屋敷の裏口へと移動した二人は、近くに停まっていた馬車へと近付いた。
配達品の運び出しを終え、御者台に座っていた老爺もこちらに気が付くと、彼は慌てて席から飛び降り、駆け寄ってきた。
「奥様っ、こんな所まで歩いて来られて大丈夫ですかいっ!? 言ってくださればこちらからご挨拶にうかがったモンを……!」
「いいのよスラータル……今日はありがとうね。色々無茶を言ってしまったようで悪いわ……」
「んなぁ〜〜っ! 無茶なんてそんなぁ〜〜っ! ……この前会った時よりもお顔の色が悪いですぜ……? グスンッ……にいちゃんを置いてったら邪魔なオレっちはすぐ帰りますんでね、早くお部屋でお休みになられてくだせぇ……!」
「……気を使わせてごめんなさいね。これ、少しだけどお礼の気持ちよ……」
イリファスカはポケットから小袋を取り出した。
手のひらに収まるその袋には、たくさんの銀貨が詰まっていた。
スラータルは“ジャリ”と硬貨同士がこすれる音を聞いて、小袋を渡そうとするイリファスカを制するように、シワだらけの自身の手のひらを掲げて言った。
「金が欲しくてやったワケじゃないですぜ。これはオレっちの好意ですんで」
「ほんの気持ちよ……期待するほど入れてないわ。タダで馬車を動かしていては、あなたも食べていけないでしょう……?」
「まぁ……こういうのはねぇ、金取っちゃいけんのですよ。困ってたモンを助けとくとね、いつか自分が困った側に回った時に、天に住む神サンが『いつかのツケだ』つって助けてくれるモンなんですわ。“運の貯金”……てんですかね? だからここで奥様から金を取っちまったら、オレっちせっかくのデケェ貯金を逃すことになっちまう……んだから、そいつは奥様自身のために使ってください。治療費がかさむかも分からんでしょ?」
「……侯爵家は治療代が払えないほど、資金難じゃないわ……」
『そりゃ失敬!』と歯を見せて笑うスラータルを見て、イリファスカは視界を潤ませた。
カジィーリアやスラータルなど……見返りを求めずに己に手を貸してくれる人達がいる……なんて恵まれた女なのだろう。
こうも幸せだと、先に待つ不幸を恐れてしまう。
もう充分幸せだというのに、さらに多くを望もうとする自分の卑しさが嫌になる。
……イリファスカより少し背の低いスラータルは、彼女の曇る表情がよく見て取れた。
なので、慎ましい侯爵夫人を哀れみ、勇気づけるように優しく語り掛けた。
「奥様……ご自身を大切になさってくだせぇ。あなたが思ってるよりも味方は多いモンですぜ? みんな、あなたから頼られるのを待ってます」
「……でも……悪いもの……もう充分助けてもらってるわ……」
「まだまだ足りんでしょう? ここはオレっちが連れてきたにいちゃんに全賭けして、一攫千金の勝ち逃げをキメちゃってくださいや! 一人勝ちってのは最高に気分が上がりやすぜ?」
「スラータルさんっ、奥様に博打の心得を説かないで! 変な遊びに興味を持ったらどうしてくれるのですか!?」
「なははっ!! ごめんごめん! でもカズちゃんも、欲張らないで損するより、欲張って損した方がイイと思うよなぁ?」
「そりゃあ勿論……―― じゃなくて! すぐに賭け事に例えるのをやめなさいって!」
主人への悪い教育を阻止しようと、カジィーリアとスラータルが攻防戦を繰り広げているさなか……複雑な思いを抱えたままのイリファスカは、馬車の荷台がきしむ音を聞いて、そちらへと目をやった。
そこには背の高い、がっしりと筋肉の付いた体格の良い青年が立っていた。
濃灰色の短髪に、薄い青鈍色の冷めた瞳……左のこめかみから目尻にかけてと、唇の右端に縦に刻まれた切り傷跡が特徴的な、まさにすさんだ世界を生き抜いてきた風貌の男が、じっとイリファスカを捕らえて離さなかった――。
「お、なんだにいちゃん、我慢できずに出てきちまったのかい? んじゃあ、奥様にご挨拶しな!」
青年の登場に気付いたスラータルは、そう言って手招きをした。
孤狼の如く近寄り難い雰囲気を漂わせた青年と、緊張から手に汗握るイリファスカの視線が絡み合う……。
青年はきびきびとした動作で長い足を動かして向かって来ると、自身の胸の高さまでしかないイリファスカを見下ろして、“スゥッ”と静かに息を吸い込み、口を開いた――。