残された者
翌朝、有之助は新鮮な水をくみに井戸へ向かった。母がいる場所まで戻ると、奥の扉がパッと開いて協会の着物を着た男と話しながら歩く信之助が現れた。有之助はやっと話せると思い手を振った。
「信! どこに行ってたんだよ」
「悪いな、ちょっと用事があって。お前に紹介したい人がいる。あの人が会頭だよ」
ゆっくり歩いて近づく会頭の姿が見えた。協会の人間が身に着ける奇妙な柄の地味な着物。背がひょろりと高く、高い鼻に真面目そうな目。
「いい主人が見つかったんだ」
「信之助、ここから逃げよう」
「はぁ? どうしてだよ」
「どうしてって! 協会は、病気の母さんをいずれ殺すつもりなんだよ!」
有之助はなりふり構わず叫んだ。信之助は驚いて眉をひそめた。
「協会が母さんを殺す? なんのために?」
有之助は気付いた。信之助の背後にしのびよる不穏な影、会頭が刀を引き抜いた瞬間を。
「信――」
有之助は金切り声を上げた。信之助は振り返りざまに切られた。血潮とともに崩れ落ちる体……
有之助は自分の手を血で染めながらうつぶせになった兄を抱き寄せた。
血が止まらない。
震えで歯ぎしりが止まらなかった。血に染まった刀を握り、会頭がゆっくり近づいてくる気配がした。信之助は、有之助の目の前で頭を踏みつけられた。
「私もなめられたものだ」
冷徹な声とともに、紙が破り捨てられる音がした。ひらひらと舞い落ちた紙切れは血だまりに沈んだ。
「使用人たるもの、主人に逆らいけがを負わせたことは問答無用の処刑に処する。他人の主人であればなおさら、危険な牙はすぐに刈り取ってしまわねばならん」
この紙は――信之助が書いてくれた請願書だ。
有之助はわれを忘れるような煮えたぎる憎悪に身震いした。会頭は刀の切っ先を有之助の喉元に真っすぐ突きつけると冷淡な視線を注いだ。
「愚かだな、お前の兄は」
有之助は喉から血が出ても構わずポツリとつぶやいた。「うそをついた」
顔をパッと上げて有之助は眉をひそめた。
「なぜ、うそをついた。新しい主人が見つかったと、信に言ったんだろ。人の心を弄んで楽しいか。信じていたのに! 母さんが助かるかもしれないって。それなのにっ」
「信じる者がいけないのだ」
「なっ」
「逆らう者は同罪。お前も、母親も、今ここで私が手を下してやろう。兄と同じように」
駄目だ。
殺される。
刀が首に……
突然血だまりからはい上がった手が会頭の足首を強くつかんだ。会頭はそのまま宙に舞い上がり、空を切るように見えた軌跡とともにバッサリ切られた。ドサリと落ちる会頭は大量の血を噴き出した。もう息絶えている。ボタボタおびただしい血をこぼしながら起き上がった信之助は傷口に手を当てて浅い呼吸をした。
信之助は、刀を引きずりながらヨタヨタ歩き、母がいるベッドに倒れ込んだ。
母は青ざめた顔で血まみれの信之助を引き寄せ、抱えきれないほどの涙を流して声の出ない喉を震わせた。信之助の目に生気が失せていくのを止められる者は誰もいなかった。有之助は震える声で兄の名前を呼び血に濡れた青色の袖を引いた。信之助は有之助と母の手を大事そうに握ると口だけで笑顔をつくった。
「すまない」
悔しそうに、兄は、本当に悔しそうに涙をこぼした。
「謝るなよ」
「俺のせいで」
「ちがう」
有之助は手に力を込めて言った。
「こんな」
「ちがうっ!」
「母さんと逃げろ」
信之助は目に全ての力を注ぎ込んだ。
「生きてくれ、有之助」
「一緒に逃げるんだ!」
「頼むよ」
警告を知らせる笛が協会の屋敷内に響き渡った。協会員たちがぞろぞろやってくる気配がする――無数の足音とともに。
「母さんを抱えられるな?」
消えかかった信之助の目に鈍い光が宿った。彼は食いしばりながらグッと身を起こして、母を有之助にかかえさせた。信之助は有之助を前に歩かせると協会の出口まで一緒に歩き始めた。
空をスッと切る音がした。
「信、一緒に逃げよう。ほら、もう少しで出口だ。頑張れ! 馬車の馬を借りてここから離れるんだ。まだ間に合う……」
有之助は兄の手を引き、後ろを振り返った。
彼の胸を1本の弓が貫いていた。続けざまに飛んできた弓はさらに胸を突き刺した。それでも信之助は倒れず、大きな壁となって有之助の前で手を広げた。
「……嫌だ! 信! そんな……僕だって同じなのに。あんたが幸せでなきゃ意味ない!」
とめどない涙で視界がぼやけ、有之助は出口にやっと届き覆いかぶさるように立つ信之助のことを見上げた。彼は穏やかな顔をしていた。
滝のように降り注ぐ弓を浴び続けながら、信之助は銀の刀を無理やり有之助に押し付けた。正気を失いそうになりなが震える有之助を母ごと強く引き寄せ、2人の額に血ぬられた口づけをした。
鉄みたいな臭いと同時に胸が張り裂けそうになった。信之助の体温を肌に感じる。
「母さんを……よろしく……な」
信之助は真剣なまなざしを向けた。今度は探し求めるように視線を泳がせた。
母は信之助の頬に手を添え、さまよう彼の目を導いた。やがて母を見つけ、ものすごく安心したのか笑顔になった。
「最期に見る顔が、母さんでよかった」
信之助の目から光がスッと消えた。
死んだ人間の目。
死ぬって、こういうことなのか?
目の前にいるのに、生きていない。
さっきまで、話していたのに。
信――
信之助――