祝杯
かばんに並んだガラスの小ビン。その中の卵形をしたビンの中にはしっかりと光を放つ赤色の油が満たされていた。赤の油を手に入れてから、4人は休養と称して一週間の休みをとることになった。その間に有之助たちは傷の手当ても終え、司に4人で選んだ菓子を届けに行ったりもした。
「有之助は本当に油が見えるんだな」
「あぁ、見えるよ」
有之助は慎重に小ビンを戻して守に言った。
「俺にはなんにも見えないや。あの獅子が言っていたように、本当なんだな。お前が精に守られてるとか、生贄になったのに殺されなかったとかも」
「理由は分からないけど、それでも僕は殺されずに済んでいる。そのことに感謝しないとな」
「次男! 荷物はもう全部まとめたよ!」
ゼェハァ言う穂海が玄関に並べた荷物を指さして言った。次男は座布団に座り机の上で筆を紙に走らせていた。彼の横には折れて使い物にならなくなった刀が布にくるまれている。朝起きてからというもの、彼は長々と手紙を書き続けている。誰に宛てて書いているのかは分からないが、その書字は守とも違って独特な雰囲気があった。
次男はやっと筆を置くと封筒にそれぞれ入れて封をした。
「有之助、この手紙を出してきてくれ」
「分かりました」
「出航まで港の待合所で待機する」
次男は言った。
「よし! 荷物は俺がまとめて全部持つ」
「守、あんまり無理するなよ」
「このくらい大丈夫だって」
そう言って守は玄関口にまとめられた荷物を両手に抱えた。
3人は馬車の荷台に荷物ごと乗り込むと、坂を下って港まで揺られていった。待合室で荷物を預けた後で出航まで時間があったので、早めの夕飯を済ますため飲食街に出た。居酒屋、そば屋、うどん屋、すし屋、てんぷら屋、アユの塩焼き、うなぎのかば焼きを売る露店もあった。
通り過ぎるだけでよだれが出そうないい匂いだ。一体どの店に連れて行ってくれるのかと期待して待っていると、次男はアユの塩焼きを売る店で急停止した。小銭を出すと七輪で焼かれた塩焼きを一本買ってもぐもぐ食べ始めた。じーっと3人が見ているのに気付いた次男は一口目をのみ込んでからこう言った。
「好きな店を選べ」
「どこでもいいの?」
有之助は念を押すように尋ねた。
「居酒屋以外ならな」
「やった! 守、穂海、どこ行きたい? 僕はうどん屋なんてのもいいなぁ」
「私、おすしが食べたい!」
「じゃあ俺は焼き鳥屋!」
1人アユの塩焼きを食べ続ける次男をよそに、3人はどの店にするか大にぎわいだった。一向に話がまとまらなくなってきたところで、次男が食べ終えた串を捨て戻ってきた。
「まだ決めてなかったのか」
最終的に3人は次男が選んだすし屋に入店した。高級そうなのれんをくぐると、カウンター席が続いており客はちらほらいる程度だった。有之助は思わず次男の袖を引いて小声でささやいた。
「いいんですか、こんな店」
「たまにはこういう店もいいだろう。好きなものを選べ」
これには思わず3人とも目が点になった。次男を左端に有之助、守、穂海の順番で座ると温かいお茶が出された。カウンター越しに仁王立ちする怖そうな店主が若い一同を見て目を細めた。
「ご注文は」
最初に手を上げたのは次男だった。
「マグロ4貫、鉄火2本」
「じゃあ僕は――サーモン2貫お願いします」
「私は甘エビ2貫」
出遅れたと思われた守はメニューからやっと顔を上げ、店内に響き渡る声で叫んだ。「たまご4貫!」
「守、声小さく」有之助は肘で小突きながら言った。「回りのお客さんにも迷惑だろ。それにあの店主、すごく怖そうだぞ。怒らせたら……」
「はいよぉおおお!」
気迫ある返事がカンター越しから返ってきて、思わずいすから落ちそうになった。店主は無駄のない動きですしを握り始める。目が離せない。なんて芸術的な手の動きだ。
「だってさ、俺、すし屋初めて入るし、緊張するだろ。なに頼んでいいか分からない」
あたふたする守をよそに、さっそくマグロと鉄火巻きがのった皿が次男の前に出された。次男は小皿にしょうゆをさし、マグロを手にとって少しだけつけるとパクッと頬張ってもぐもぐ無表情で食べ始めた。
「はい! サーモン、甘エビ、たまご!」
店主は元気よく皿を出した。目の前に出されたサーモンのとりこになった有之助は、しょうゆにつけて一口食べてみた。とろけるような舌触り、口の中に広がるあぶらの甘み、かめばかむほどうま味は広がり、わさびとしょうゆの風味が鼻を駆け抜ける。しゃりと溶け合う絶妙なハーモニー……これは、これは ……うまい! なんておいしいんだ。涙が出そうなくらいうまい!
有之助は最後に熱いお茶を口にふくみ飲み込んだ。
「なんだこれ」
突然守が叫んだ。
「どうしたんだ。守」
心配して隣を見ると、守がたまごを食べ終えたところだった。
「なんだこ――」
「静かに食べろ!」
有之助の左方向から声が飛んできた。思わず次男を見ると彼は何事もなく鉄火巻きを頬張ったところだった。殴られてもなお、守の目は遠い彼方に意識を置いてきたような虚無に支配されていた。
「なんだこれ、だけじゃ分からないよ、味はどうなんだ?」
「うますぎる」守は号泣しながら袖に突っ伏した。「母ちゃん、ごめん、俺、世界で一番おいしいのは母ちゃんの黒い卵焼きだと思って生きてきた。だけど、こんなにとろけるような甘いたまごは初めて食べた。なんだこれ、たまごじゃない、こんなの。一体なんなんだ、これは……うあぁぁぁ」
まるで酔っ払いのおやじを介抱しているような絵ずらだ。黒い卵焼きという謎のパスワードが聞こえてきたが誰もが聞こえないふりをしていた。




