黒い着物
一方、店に残された穂海はずらっと何百種類も並ぶ色とりどりの着物を見て困り果てていた。一つ一つ手に取ってみる。かわいらしい桜や牡丹の柄、色も豊富にあった。穂海はその中から自然と黒い生地の着物を手に取っていた。
思い返せば、黒以外の着物を着たことは一度もなかった。遠い昔の記憶だが、誕生日に母が新しい着物を買ってくれたことがある。そう、ちょうどこんなふうに、呉服屋に来て――
”黄色がいい”
母は困ったように眉をひそめた。
”黒にしなさい、穂海”
母は好きな色を選ばせてくれなかった。どうして黒以外を着てはいけないのか、ある時聞いたことがあった。でも、母は教えてくれなかった。ようやく答えてくれたのは、初めて母の仕事に同行したときのことだ。母は知らない人の家に忍びこんで若い夫婦を殺したところだった。母はその時、一滴の血もついていない黒の着物を着ていた。
”穂海、これが私たちの仕事。お国の偉い方から依頼されて正式に殺しを行う。殺しの作法は主に、苦しめずに殺すこと、返り血を浴びずに殺すこと、時間をかけないこと、この三つ”
母は血に染まった短刀を握りながら言った。
”黒は血に染まらない”
だから母の言う通り黒い服しか着なかった。
でも、殺す勇気のない私は一度も黒い着物に血を着けたことはなかった。
ひそかに黄色の着物を着たいという願いはあったけれど、結局あの誕生日以降おねだりすることもなくなった。
黒は嫌いな色じゃない。だけど、どうしても好きになれない色が一つあった。
それは、赤色。
母の殺しを見るたびに、赤がますます嫌いになっていった。赤色を見ると、血なまぐさい鉄のようなにおい、それから生気の抜けた人間の亡骸を思い出す。
穂海は目の前に並んでいる着物を手に持ってしゃがみこんだ。これまでたくさんの死を見てきた。自分はそれをただ黙って見ていた。きっと、有之助たちが知れば失望するだろう。
「穂海、いいのは見つかった?」
顔を上げると息を切らして汗をかく有之助が立っていた。次男は座りながら腕を組んで居眠りしていた。もう、長いこと同じ場所で立っていることに気が付いた。
「有之助っ!」
「どうした?」
有之助は本当に心配そうに尋ねた。穂海は過去をさまよう目で恐る恐る有之助のことを見た。目の前に広がる赤色はとても優しい色をしていた。どうしてだろう、この赤色はとても温かい。
「おなかの調子でも悪いのか? 買い物で歩き回って疲れたもんな」
「そんなんじゃない。守は?」
「あぁ、守なら今の着物以外着るつもりはないみたいだから、僕らだけだよ」
穂海は笑顔を取り戻して顔を上げると有之助がじっと顔を見つめてきたので驚いた。
「穂海は、どんな着物を着てみたいんだ?」
「黄色」
有之助は穂海の手を引いて店の中を歩き出した。ぐんぐん引かれて進んで行くと、やがて水色の着物が並ぶ場所に来た。
満面の笑みで有之助が差し出したのは、青地に金の糸で稲穂柄が刺しゅうされた鮮やかな着物だった。美しい絵画を見ているような輝きだ。
「ほら、触ってごらん。しっかりした生地だ。着心地もよさそうだし。黄色も入ってる。さっき偶然見つけたんだ」
急に頭の中がポカポカして、胸がじんわり温かくなった。着物を前に穂海はごくりと唾をのみ込んだ。恐る恐る差し出された美しい着物に少しだけ触れてみた。
「きれい」
「着てみなよ」
穂海は試着室に入って生まれて初めて黒以外の着物を着てみた。遠慮がちに鏡に映る自分を見てみると、そこにはまるで雰囲気の違う自分が立っていた。もともと秋の稲穂という言葉がぴったりな髪色にもよく似合っていた。
「どうかな?」
穂海は顔を不安にして有之助に尋ねた。
「似合ってる。次男さんもそう思いませんか?」
ようやく仮眠から目覚めた次男が見に来て「あぁ」とぶっきらぼうに答えた。
「ありがとう。次男! 有之助! この着物――ずっと大切にする」
言ってから穂海はニコニコする有之助を見て急に思い出した。
「有之助! あなたの着物を選んでないよ」
「あぁ、僕ならもうお願いしてあるから大丈夫。さっき、着物の修繕を頼んだんだ」
「修繕?」
「うん。僕には兄さんがいたんだ。券を渡してくれた呉服屋夫人の元で働いていた僕と同じ使用人でさ。今僕が着ているのと逆で青色の着物を着てた。兄さんはもう死んでいないんだ。着物はボロボロになってしまったけど、またきれいに直して持っていたい。身に着けられる形にして」
3人は荷物を抱えて夕方前には宿に戻った。買ってきたものをテーブルや棚の上に並べ、ごみを片付けた。穂海は買ってもらったばかりの着物を着てうれしそうに鏡を見ていた。
有之助はふと窓を開けて美しい水平線をながめた。




