呉服屋夫人
車は病院前で止まり、有之助は母がいる病室に真っすぐ向かって歩いた。部屋を訪ねると、いつものように目を閉じて眠る母の姿があった。
「おはよう、母さん」
有之助は母に寄り添い手を握った。
「どう? 母さんがいつか着せたいって言ってた着物、着てみたんだ。あと四つ分足りないけど、そのくらい許してよ。次男さんが宝屋の屋敷から交渉して取り返してくれたんだ」
母はやはり目を開けないが、有之助はそれでも語り掛けた。
「しばらく会えなくなる。この町よりずっと先にいった半島だよ。いつか絶対によくなるから、信じて待っていて。大丈夫、宝屋も協会も、ここに母さんがいることを知らないよ」有之助はほほ笑み掛けた。
次男は病室の入り口に寄りかかって有之助が話し終わるのを待っていた。
「突然で驚いたよ、商屋くん」
有之助の母を担当した主治医が来て言った。
「良明先生」
次男は壁に寄りかかっていた背を離した。
「あの少年は頑張っている」
「えぇ」
「君の弟子かい?」
「いえ」
「なんにせよ、君も相変わらず元気そうでよかった。旅の目的は知らないが、体だけは大事にしろよ。命に代えは利かないからな」
「はい」
「なにかあれば手を貸そう」
「十分あなたには世話になりました」
「そういうな、商屋くん。困ったときは素直に頼りたまえ」
次男は言われながら病室で母に寄り添う有之助を見つめた。
「母さん。元気になったら、また一緒にご飯を食べよう。散歩もして、市場で買い物もするんだ」
有之助はポケットから自分で作ったみつあみの飾りを母の細い腕にくくりつけ、同じものをつけた自分の腕を並べた。有之助は次男をそばに呼ぶと彼のことを母に伝えた。
「次男さんが僕の力になってくれるって。だから心配しないで」
次男は黙って母の寝顔を見下ろしていた。
「それじゃあ、もう行くね」
有之助は力を込めて母に呼び掛けた。
有之助が病室を出たところで次男は立ち止まり、そっと彼女のそばに立つと刀を横に持ち上げた。横から差し込む朝日が2人を照らす。
「あんたの息子は俺が守る」
駅に行く前、有之助にはどうしても立ち寄る場所があった。2人を乗せた車は一本道を進んで行き、隣町の協会前に止まった。全ての歯車が狂いだした場所。有之助はあの日のことを鮮明に思い出した。腰に携えた銀の刀にそっと手を置いてしばらく呼吸を整えた。
信、戻ってきた。
有之助は外套を目深にかぶり協会を見上げた。
2人は協会裏手にある共同墓地に向かった。有之助は数週間前、ある人から電話を受け取っていた。信之助が仕えていた主人の呉服屋という夫人からだった。電話越しの呉服屋夫人は終始憔悴しきった様子で時折鼻をすすりながら話した。
”私、信之助さんの主人をしておりました、呉服屋と申します。あなたたちの足取りを知るのに時間がかかりましたゆえ、連絡が遅れたことご容赦ください。すべて聞いております。信之助さん、それからあなたたち家族に起こったことも。こんなひどい仕打ち、許してなんて言えませんよね――あの日、信之助さんは私たちに黙って姿を消しました。なにもかも、1人で背負おうとして、協会の手によって……ごめんなさい、私はあの子を本当の家族のように思っておりました。今すぐとは言いません。少し落ち着いたら、一度お会いできませんか?”
呉服屋夫人は協会裏手にある共同墓地に兄が埋葬されたのだと教えてくれた。聞くのはつらかったが、向こうも声を詰まらせながらつらそうに話した。
彼女には油を探すため、しばらく旅に出て戻らないことを伝えてある。
大きな石碑の前にやってきた有之助は、高貴そうな黒い着物姿で立ち尽くす1人の女性を見つけた。
「使有之助さんですね」
「はい」
「本当にごめんなさい」
呉服屋夫人は深々と頭を下げた。
「あなたはなにも悪いことをしていないじゃないですか」
「もっと早く手を尽くしていれば、救えることができたかもしれないと。後悔してもしきれないんです」
「あなたは、信を救ってくれました。だって、信は、あなたのことを本当に優しい人だと言っていましたから。信は、宝屋のような主人にもらわれなかったんだって、それだけで僕、よかったなって、思ってます」
呉服屋夫人は有之助が腰に携える銀の刀を見て目をうるませ、持ってきた紙袋を手渡した。中をのぞいてみると、きれいに繕われた兄の着物が入っていた。青色の生地に銀の鶴が刺しゅうされた、兄がいつも身にまとっていた宝物。完全には落ちなかったのか生地には黒いシミが無数に浮かんで見えた。切りつけられた跡を見るだけで胸が引き裂かれそうだ。
こんなに深く切りつけられたのか。痛かっただろう。信じていた者に裏切られ、悔しかっただろう。
でも、同時に勇ましい力を感じ取った。瀕死の一太刀を受けてもなお、相手を殺すほどの力で立ち上がり、刀を振った。有之助と母を守るために。
有之助はその場にしゃがみ込んで信之助の着物を強く抱き締めた。
「信……ごめん。こんな弟で――本当にごめん」
血とは違う、長年染み込んだような懐かしい匂いがした。目を閉じると兄が目の前にいるような気さえした。
「もっと早く、来てほしかったよな。分かってる。僕は腰抜けだ。ここに来るのが怖かったなんて」有之助は兄の着物をくちゃくちゃに握りしめた。




