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名切り同盟  作者: 秋長 豊
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とらわれの身

「この私に向かってその口の利き方はなんだ」


 熱のこもった大きな手が有之助の頰をわしづかみにした。それでも有之助は反抗的な目を絶やさなかった。そこへ慌てた母がやってきて深々と頭を下げた。


「どうかお許しください!」


「これもお前の教育が行き届いていないせいだ」


 宝屋は2人をお客様の見えない台所に連れていくと、激しく母を突き飛ばした。そのせいで母は食器棚にぶつかり大量の皿を頭からかぶった。それでも怒りが収まらないのか、宝屋は次に母をごみ袋の上に投げ飛ばした。


「いいか? よく聞け、お前たちが食っていけるのはこの私のおかげだ。使用人なら使用人らしく能力の高い仕事をしろ。なにを勘違いしているのか知らんが、私に意見するとはいい度胸だ。お前たちは私が買ったのだ。いいか、分かったか!」


「買われた覚えなんて――」


 パシン! と乾いた音が鳴った。有之助は右の頰に手を添えて顔を悲痛にゆがめた。母は悲鳴を上げそうになった。宝屋は有之助の髪を引っ張って突き上げた。


「その目はなんだ」


「……母さんに謝れ」


「どうやらお前は、私を怒らせる天才らしい」


「謝れ! 今すぐに!」


 今度は反対側の頰をたたかれた。痛みよりも悔しさと怒りが身を奮い立たせていた。


「謝るべき人間は、私ではなくお前だ」


 宝屋は細めた目の奥に苛立ちを浮かべながら言った。


「私がお前たちを買った! 何度言ったら分かる!」


「例え1千万、1億出したって、僕と母さんの心までは買えない」


 宝屋は有之助の髪をつかんだまま乱暴に歩き始め、浴室に行くと鍵を閉めた。追い掛けてきた母が扉をたたく音が聞こえる。


「有之助! 有之助! あぁ、どうかその子だけは!」


 宝屋は冷たい水が張られた浴槽の前に有之助の頭を突き出した。鼻先に水が触れた。


「主人に向かって謝れ? そんなばかな話があるか。お前のような使用人を派遣した協会には、文句を言ってやらねばならん。使えん! 本当に、お前は使えんやつだ!」


 考えることも、話すことさえも許されなかった。問答無用で水の中に頭を押し込まれた。一瞬で平常時の思考回路を奪われ、力によってねじ伏せられる。息が水の中にあふれる。すぐさま水から出され、また激しく入れられた。


「お前は使用人の分際で、私を愚弄した。言うことを聞かなければ思い知らせるまでだ。分かったか! 返事をしろ!」


 何度も、何度も、口から、鼻から、大量の水を飲み込んだ。どんなに力を込めても宝屋のすりつぶすような怪力には及ばなかった。息ができない――苦しい。


 長い間水に顔を突っ込まれ、もはや浅い呼吸しかできなくなっていた。


「返事は!」


 有之助はどんなに怒鳴られても決して「はい」とは言わなかった。


 今度はグッと体を持ち上げられ、冷たい浴槽に体ごと投げ込まれた。水が激しく波打ち、勢いよくあふれ出た。氷のような冷たさに心臓が止まりそうだ。有之助は水の中からはい上がり、無意識に震える体を両手でしっかり支えた。


「次はこれで済まさない」


 宝屋は怒声を浴びせて出て行った。開かれた扉の向こうで母が膝をついて涙を流していた。母は浴槽から有之助を引き上げて夢中で抱き締めた。呼吸が整うまでの間、有之助は母の優しい手で背中をさすられ続けた。


「本当にごめんね。有之助っ」


 母は乾いた布で優しく包み込むと、ものすごく悲しい顔で途切れるように言った。悔しくてたまらなかった。泣きすがる母を前になにも言えない。


 その晩、母は割れた皿でけがをした自分の手に包帯を巻いていた。1人では巻きづらそうにしていたので有之助は手伝った。


「有之助。一生懸命、母さんのために怒ってくれたんだね。ありがとう」


 あまりに優し過ぎる響きだった。

 ありがとう? 母のために、なにもできていないのに?


 有之助は自己嫌悪で胸をいっぱいにした。ただ、いたずらに言葉の応報で母を傷つけているだけではないか。言葉だけでは救えないことくらい、十二分に分かっているはずなのに。


「僕らは主人の言うことを聞くだけの存在? それじゃあ、ただの機械と何も変わらないじゃないか」

 そう言ってから有之助は口をつぐんだ。


「有之助、私たちはね、使用人として宝屋から高い金で買われた身なの。使用人は協会というところに皆所属していて、宝屋のような金持ちに買われていく。お兄ちゃんは優しい主人に買われたから、きっと今もよくしてもらっている。もっと優しい主人だったら、楽もさせてあげられたんだけどね」


 心配を隠すように母はほほ笑んだ。


「いつか、父さんの生まれ故郷に連れて行ってあげたい。あの村は、昔から精が宿る土地と言われている。昔から、その地に根付く守り主様がいらっしゃるんだよ。村には古い風習があって、目の下におしろいをつけると、守り主様の加護を受けることができると言われているんだ」


 母は愛用している用具入れから手帳と白い丸形の入れ物を取り出した。入れ物の中にはおしろい用の白い粉と小さな筆が入っていた。


「これは父さんのおしろい」


「そっちの手帳は?」


「これはね、御精印帳というんだよ。その土地によって守り主様は違う。だから、町や村ごとに主様を祭る精社というお社があるんだ。お社に行ってお金を納めると、この御精印帳に、お社の名前、守り主様の名前、印を押してもらえる。こうして持っているとね、守り主様をより近くに感じることができる。そして、力をくれる」


「でも、なにも書かれていない」


 有之助が御精印帳をパラパラめくりながら言うと母は最初のページを開いてくれた。


「ほら、ここに書いてある」


 確かにページには墨で”千秋ノ鶴”と書かれていた。


「鶴?」

「そう。これが父さんの故郷を守っている守り主様。私はまだ一度も会ったことがないけどね、有之助なら会えるかもしれない」


「どうして?」


「父さんは、不思議なものが見える人だった。だからね、大抵の人は信じないだろうけど、守り主様を見たことがあったんだって」


「母さんは見たことがあるの?」


 母は首を横に振った。

「母さんは村の外からやってきたよそ者だったから。でも、父さんの家系は村から伝わる不思議な目の持ち主だった。だからね、有之助も父さんに似て不思議なものが見えるかもしれない」


「見えないよ。信はどうなのさ?」


「お兄ちゃんは見えないと思う」


「どうして分かるの?」


「有之助の方が父さんによく似てる。髪の色は母さん譲りだけどね、笑った顔とか、目や鼻なんてとくにそっくり。そういえば、声もよく似ているね」


「父さんはどんな人だった?」


「一緒にいるだけで、心が温かくなる。そんな優しい人だった」


「どうして一緒になったの?」


「この人と、一生ずっと歩んでいきたいと、そう思ったから」


「ずっと?」有之助は急に不機嫌になった。「だって父さんは、ここにいないじゃないか。優しい人は家族を捨てたりしない。そうでしょ?」


「有之助」


「ずっと帰ってこないんだ、もう僕らのことなんて忘れてるよ」


「有之助には本当に、つらい思いをさせてしまったね」


「母さん、いつかここを出よう。きっと信も手を貸してくれる」


「それは……できないの」


「だって! 信之助のところはいい主人なんでしょ? きっと理解してくれるよ。少なくとも、ここより絶対にいい」

 有之助はしっかり母の目を見て言った。


「今よりもっと、大切にしてくれる主人を探すんだ」

「有之助、協会の決まりなの」

 母はかたくなに言った。


「お願いだよ、母さん」


 母は静かに力なくほほ笑むだけだった。

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