名前に頼る者
図書館から店に帰ったのは夜遅くになってからだった。雪がポツポツ降る寒空の下、有之助はとぼとぼ道を歩いた。口の中が切れて血の味がする。目が腫れて痛い。
店の前に傘を差して立つ花がいた。きょろきょろ周囲を見て、誰かを探しているように見える。全身殴打されてボコボコになった有之助を見つけた途端、花は傘も投げ捨てて抱き締めた。
「一体なにがあったのですか」
「坂道で転んだだけですから、大丈夫です」
花は悲しそうに眉をゆがませて傷だらけの頰に手を添えた。
「うそをおっしゃい」
「花様! どこにもいませんよ――」
裏手から走ってやって来た白知丸は有之助を見て言葉を迷子にした。
「えぇと、なにがあったんですか?」
雪を踏み鳴らしながら次男が扉を開けて出てきた。有之助が手に本を抱えているのを見て彼はため息を漏らした。有之助は怒られるのが嫌でずっと地面を見たままだった。
フサッと頭の上に温かいなにかがのった。ためらいがちに目を上げると、次男の大きな手が自分の頭の上にのっていた。ほほ笑むでもなく、悲しむでもなく、いつもと変わらない表情で次男は真っすぐ見ていた。
「正直に言え。誰がやった」
言葉の奥にすさまじい圧を感じた。有之助はうそがつけない魔法にでもかかったように自然と口を動かしていた。
「4人の男。本を返しに行ったら、待ち伏せされて――」
「そうか」
次男は手を袖の中に閉まうと視線を下げた。再び目を上げる頃には機嫌悪そうに眉をひそめていた。
「手当てをして、今日はもう寝ろ」
有之助は花に寄り添われながら屋敷に上がった。手当てをしてから布団の中にもぐり、無力な拳を握りしめながら目をつむった。
翌日、有之助はいつもより遅く起きた。市場へ買い物へ出掛けたり、花と一緒に仕込みをしたり、昨日あったことはなるべく忘れるように努めていた。13時になっても次男はお昼を食べにやって来なかった。
「次男さん、今日は忙しいみたいですね」
「たまにはこういう日もありますから。有之助さん、ひと段落したら休憩に入ってください」
「はい」
有之助は笑顔で答えた。
そのころ、ちょうど例の4人が騒がしくしながら図書館にやってきた。彼らは腕を組んで待ち受ける青年を見てビクッと体を震わせた。
「しょ、商屋っ!」
男たちの顔からサッと余裕が吹き飛んだ。
「ど、どういうつもりだよ」
「待ち伏せだ」
「はぁ?」
次男は手をポキポキ鳴らして男たちに詰め寄った。「手短に済まそう」
「な、なにを――」
「殴ったのはお前だな、医門」
「ちょっと待て!」
「兄貴! やばいっすよ」
太った男は気まずそうに手をひらひらさせて言った。
「俺の使用人に」
背の高い男はゴクリと唾をのみ込んだ。
「手を出すな」
「少し、ほんの少し手が出ただけだ。年上の人間にろくな敬語も使えたしない。礼儀ってもんを――」
医門と呼ばれた男は途中で言葉を途切れさせた。正確には、言う暇さえ与えられなかった。男はテーブルの上をけちらしてふき飛び、図書館にはつかの間の静寂が訪れた。次男の足元にはわずかに煙が立っている。
「人に礼儀を教える?」
次男は右の拳を固く握りしめ、悠然と歩きながら言った。残る3人は人が軽々と吹き飛ぶ光景を見て互いを抱き合い部屋の隅で震えあがっていた。
「恥を知れ」
かろうじて起き上がろうとした力も、完全に消え失せた。男は今にも泣きそうな目でたじろいだ。
「直接言う度胸もない人間が、俺の前で礼儀を語るな」
「あ、あの使用人も同盟に入れたんだろ。そうやって、お前は名切り同盟の勢力を大きくしてる。お前たちのせいで、俺たちの身分保証が危うくなるんだよ! 名切り同盟なんてやめてしまえ!」
医門は脇腹を抱えて立ち上がると次男めがけて走り出した。振り出した拳は待ち構える次男の頰を強烈に殴りつけた。
医門は殴り切った感覚がないことに気付いた。いや、むしろ手の骨が折れる音がした。確かに、拳は当たっているはずなのに。
「うそ、だろ」
拳は頰にとどまったままだった。次男はそのまま医門の拳をつかむと払った。全く歯が立たないことに怖気づいた医門は腰を抜かして床を後ろにはった。
「お前の拳はその程度のものだ。もし、次も同じようなまねをしたら――切るぞ」




