迎えた朝
疲労困憊だった。
心も、体も、鎖でつながれたようにずっしりと重い。しばらくはこうして布団の中で何も考えずにぐったりしていたい気分だった。
有之助は薄っすらと目を開け、光に透ける障子をぼんやり見つめた。どうやら無事に朝を迎えられたらしい。小鳥のさえずりが静かな部屋の中を平和に満たしている。
昨日のことは思い出すだけで頭が熱っぽくなる。今日彼と会ったらどんな顔をすればいいのだろう? 有之助は恥ずかしくなってため息を漏らした。
今、こうして布団の中で考えてみれば、自分がしようとしていた行為は熟慮の末に起こした行動ではなかった。突然、本当に突然、頑張る気力もなくなって、もうなにもかもが、どうでもよくなる、そんな無の境地に立っていた。
昨日の夜、次男は主人になると約束をして部屋を出ていった。その後は、あまりの疲れで倒れるように眠ったので記憶がなかった。
あれ? そういえば、どうして布団で寝てるんだろう。
突然ピシャリと戸が開いた。
「おはようございます、有之助さん!」
視界に入ったのはニコニコ顔の白知丸だった。彼はすぐさま有之助のそばに飛び込むと、楽しそうに鼻歌を歌いながら脚をパタパタさせた。かすかな記憶を頼りに思い出すと、昨日からこの子に随分と懐かれているような気がした。
寝ぼけ眼の有之助をさておき、白知丸はさっきから独り言のように話しを進めている。この屋敷は散策すると面白いだとか、町で今人気のお店があるとか、とにかくたくさんのことを話してくれた。
「白知丸は人と話すのが好きなんだな」
急に顔を赤くした白知丸は布団を奪って顔を半分だけ隠すと、いじらしく有之助を見つめた。
「しゃべり過ぎちゃうのが悪い癖なんです。気になさらないでください」
「ううん。元気、もらえる」
白知丸の顔がパァッとヒマワリみたいに輝いた。
「ふふっ、よかった」
「白知丸の家はどこなんだ? ここで働いてるってことは、近くから通ってるとか?」
「僕は花様と同じで住み込みなんです。普段は次男様のお屋敷にある部屋で寝起きしています。有之助さんのお部屋も準備されていると思いますよ。朝ご飯はみんなお屋敷で食べるので、俺たちも行きましょう! 今日はどんな焼きおにぎりかなぁ」
「母さんのところに行かないと」
「実はお母様もお屋敷に移動したんです。店の1階ではあまりにも粗末なので。さぁ、ついてきてください」
白知丸は有之助の手を引いて屋敷まで案内してくれた。商屋家の屋敷は広い石庭や池が連なる巨大な邸宅だ。入るのもためらわれる荘厳な雰囲気の中、白知丸は両手をぶんぶん振って玄関の戸を開けた。
「あれ? 豊さんは今日もいないのか」
きょろきょろ見渡してから白知丸は玄関に向って手を差し向けた。
「どうぞ、入ってください」
「おじゃまします」
言われるがまま中に入ると、高級旅館さながらの広々とした玄関が出迎えた。丁寧に造り込まれた木造建築の温かい空間で、台の上には季節の花が生けてある。なんでだろうか。いい家に違いはないのだが、宝屋の屋敷みたいに金臭い感じが全く感じられない。感じるのは、清流のようにしとやかな品性と高貴さ。
「杉のいい香りがする」
「お目が高い! なんでも、北国から取り寄せた高級杉材で建てられたそうで、ちゃんと手入れすれば200年以上持つんですって」
「そんなに持つのか。それはすごいなぁ。普通の木造宅なんて80年持てばいい方なのに」
驚きに満ちた会話をしながら廊下を進んで行くと、ふと暖房の効いた広い部屋に出た。中央にはいろりがあり、座布団に座って次男が焼きおにぎりを焼いているところだった。
花は隣で火にかけた鍋の中身をおたまでかきまぜ、おわんによそっている。有之助と白知丸を見た花はにこりとほほ笑んだ。朝食のいい香りで胸がホッと落ち着き、幸福な気持ちに包まれた。
「おはようございます、有之助さん。昨日はよく眠れましたか?」
花も昨日あったことを知らないのだろうか? 有之助はドキドキしながら彼女の顔を見た。どうやら、次男からはなにも聞かされていないようだ。
「はい」
「お母様なら隣のお部屋で寝ておられます。病院へ行くまでは私がお世話しますから、大丈夫ですよ」
「こんなにご親切にしてくださるなんて。花さん、次男さん、本当に、本当に――ありがとうございます」
花は頭を下げる有之助を見て穏やかに笑み、次男を見返した。
ちょうどこんがりと焼けた焼きおにぎりを箸でつかむと、次男は小皿に取り分けて渡した。みそ汁と焼きおにぎりを2人分もらった有之助は、母がいる部屋に行って横になる母を見つけた。
「おはよう、母さん」
母は動かせる上半身を使って振り向くとほほ笑んでくれた。
「こんなにゆっくりできるのは久しぶりだ。ちゃんと食べて元気出さないと。僕、この店を経営する商屋次男って人の元で働けることになったよ。もちろん、母さんも一緒だよ。彼が僕らの新しい主人になってくれるんだ。感謝してもしきれないよ」
そう報告すると母は悲しみの中にやっとうれしそうな表情を浮かべてくれた。母の顔を見ていると、昨日自分がしようとしたことを思い出した。
「ごめんなさい、母さん」
いつの間にか声にでていた。母はなぜ謝るのか分からないと言いたげな目で見返している。有之助は口から出そうになった罪の意識を寸前のところでのみ込んで笑顔をつくった。
「頼りないけど、頑張るから。僕」




