第五十八話 庭から聞こえる声 2
あの弟子たちも、よくやるものだ。
私が生まれる前から、父を慕う男は多いらしい。
慕う……?
本当に謎だけど、父は各方面で付き合いがあったようで。
よくわからないコネクションが出来上がっていて、主に交流は家の庭だった。
母は洗濯物を畳んでいる。
父は畳まない。
手伝おうともしないことには口を出さない母……。
あいつは下手くそという段階を通り越していたので、母自身が、頼むから二度と畳まないでくれ、まず触れるな、と釘を刺したのであった。
洗濯ものを……いや、全てだ。
畳めない。
物事を畳めないというか、皺をなくすこと、整えることが苦手な父親だと思う。
そんな人間に対し、古い友人がたびたび父のもとにやってくる。
経歴、肩書は様々。
背広を着ている人がやってきて、父と色々話しているなと思ったら道着になって並んで正拳突きをする。
三度の飯よりも酒の席が苦手、そんな父がよくもまあ……友人だと?
ちゃんとした交友関係が出来たのか、と驚かされる。
だがそれが、私の家で起こる日常だった。
「本当に難しい質問……ね」
畳みかけのシャツを膝の上に乗せたまま、母は言った。
真弓が言いたいように、他にもいろんな人がいて目に入った。
ちゃんとした人、普通の人―――は確かにいたし、近づく機会もあったわ。
慕っていた時期もある―――、と。
そんなことを呟く。
私は母の口元を凝視していた。
「お母さんにもよくわかんないわ……学校の先生なら、もっとちゃんとした教え方が出来るかしら」
がっかりはしなかった。
簡単な問題ではないし、やっぱりそうかと思った。
そもそも学校の先生だろうが何だろうが、信用していなかった幼女、それが私だった。
ただ、母は―――ちゃんと考えてくれたような、表情をしていた。
庭から声が飛んでくる。
背が伸びきった頃にやがて出会うことになるあのボーカルとは全く声色は違うけれど。
同じ、勢いのある声だった。
父は弟子の一人を叱責している。
「蹴りィ! 駄目ねェ そこの蹴りィ! 誰が倒れるんだソレで どこぞの振付けだァ?」
「す、すみません!」
「どこのアイドル目指してんだァ!?」
「はぁッ? そうじゃないですがっ しかし目指すのもアリかなあと―――思うでありまァす!」
「んお! そうか―――そりゃあよろしいィ! 前向きだ! でもお前はいま男だし、道着を着てるんだ!」
「お押忍っ!」
喉まで筋肉で出来ているのだろうか、あいつは……そう思う私。
いや待てよ、声帯って筋肉のようなものか。
……よく知らないけど。
ふふ、とお母さんの笑い声が漏れる。
「もう少し見ていたい」
もう少し見ていたい気はしたかな、とお母さんは言った。
「真弓が言ったのは難しい質問だし、そのなかで正解もあった……正解に近いちゃんとした人がいた。ほら、世間的に、そういう人が……あと、格好のいい人がいた……お父さんよりもね? 素敵な出会いもあったはずよ」
もう、あまりその格好良い顔を思い出せないけれど―――、と。
遠い目をする。
お母さんは色んな人を思い出している……私の会ったことのない人たち。
様々な人たち。
それとも、お母さん昔モテたわよ、と言い出すのだろうか。
……いや、表情からはなんにも読み取れなかった。
私にそんなスキルがあれば、もっと器用に学生生活を過ごす人間としてやっていく未来があっただろう。
他人と同じように。
「でもね、あんなの見たら―――なかなか忘れられないのよね」
「……あんなの」
「そ、《《あんなの》》。 それを―――ふふ、なんでしょうねえ? 近くで見ていたら、そんなことばかりしていたら―――いつの間にか。 この様よ。お母さん」
お母さんは笑って言った。
このザマなのかぁ……。
「お父さん、嫌い? 最近、嫌い?」
母は特に威圧などしなかった。
いつもの口調だった。
ああ、嫌いだね。
と言いたかった瞬時に。
瞬時に、でも、言えなくて。
言葉がなかなか発せず私は、目を逸らさないようにしながら、言葉に迷った。
「……あんなのじゃないと、いけないのかな……」
それだけを言うのがやっとだった……言いたいことはあった。
あんなのが近くにいなければ、私は違う私になれていた。
それは本当に強く感じている。
「そうよねえ!あんなのおかしいもんねえ!」
二人して空を見上げる。
見上げたつもりだったが暗闇だった。
ライブ会場の天井だ。
実家の廊下の上が―――私はそれに違和感を覚えない。
『真弓』
ああ、ボーカルが。
私は思い出した、何をしていたか。
そうだ、夢呼が歌を、歌って――それで何とかするんだった。
で、話はまだ終わっていないんだった。
全然、うんざりするくらいに―――終わっていないんだった。
『まーゆーみぃー! 聞こえますかー』
お前の声が聞き取りづらかったことはねえよ。
「お友達が来たわね」
「……そんなんじゃあ、ない。 親父よりはマシかも……と、思った。 そう勘違いしちまった、なにかだよ。アレは」
「賑やかな子ね」
……なんていうか、真弓にもそんな子が出来たんだなあって。
そう遠い目をする母と私、その目線は並んでいた。
いや、私のほうが少し高くなり。
「もう少し見ていたくなった―――それか、聞いていたくなったのかな? お母さんは」
生きていれば、見ていたいもの、聞いていたいものを見つける。
見つけてしまうとお母さんは言う。
ちゃんとしたものをいくつか見て、確かに悪くなかった。
悪くは―――なかった。
で、選ぶ気にはならなくて。
これだ、という気持ちは心になくて。
強く嫌悪したわけではない、それを。
けれど結局、忘れてしまった。
いま真弓に言われて、聞かれたからそういえば―――と、思い出した。
「選ぶ時が来るわ。 お母さんはあんなの、選んじゃった。で―――真弓も、同じ。 何か一つにしなきゃ―――っていう時が来るわ」
進む方向だったり、友人だったり、もっと大切な人だったり。
小さな選択ならもう毎日頑張ってると思うけれど。
面倒よねえ、困るわよねえ。
何度も思い出しちゃうわよねえ?
これだから、生きているのは面倒———最初から死んでいれば、こんな悩みはなかったはずなのにね?
んなこと言って、どうせ生きなきゃあならねえんだろ、と思いながら、私は瞳を開く。
女が私の顔を覗き込んでいた。
「ホラホラ! やっぱりだ、生きてるぞこの健康野郎が!」
ああ……また見る羽目になったぞ。
明日も明後日も。
おそらくだけど。
ここで少し不穏なものを覚えた。
知らない場所だ―――ライブ会場ではない。
全体的に視界が白く、光を感じるのは昼間だからだ。
それとも私の眼がおかしいのか?
私の両目は―――本当に、正常なのか?
私の緊張を他所に、ボーカルが言う。
「キスしてやろっか」
「……近い、舐めるぞ、その眼鏡」
目を倍に開いて、跳ね離れた夢呼。
お前、顔近いんだよ。
何も見えない可能性はあった。
私の身体が朽ちて、世界が終わっているという未来もあった。
けど、まだまだ視界に入れないといけない。
色んなものを見ないといけないし、聞かないといけない。
そんな日々が続いていくらしい。