第五十二話 音楽性の違い 1
「嫌いだった……そりゃあもう、確かに嫌いだった」
どこに向かって言っているのだか、イマイチはっきりしない声だった。
それはホール内から流れこんでくる歌に、かき消される所為なのかもしれなかった。
真弓が語るのをあたしは、耳だけで、音声だけで聞いていた。
両手で顔を挟まれ。
真弓の首すじのあたりまでしか見えない。
抱きしめられているのともちょっと違う、中途半端な姿勢だった。
いきなりのことが続き、混乱、困惑。
けど困惑は真弓も同じなんだ……だって、噛まれただなんて。
あたしは黙って聞いていた。
真弓……《《噛まれた》》って、本当?
なんで……。
その表情は、想像するしかないけれど。
「なんで嫌いだったんだ? ———って聞かれたら迷うけれど……何も説明なんてできないけれど。
知らなかったから。
ってことなんだろうな、たぶん―――。それだけのことで、
「愛花のことがわからなくてわからなくて、いつの間にか、許せなくて、
「悪い奴じゃねえ。それくらいは……予想がついてたけど、
「まあ、あんたが嫌いだったし、じゃあ自分のことは―――、嫌いだったはず
自己愛はあった、そんなものはあった。
それでも嫌いだった。 でも……!」
でも。
「YAM7だったんだ。
こんなことだったんだ。
こんなに簡単なことだったんだ。
知らなかったんだ。
なんでもいい……何か、一曲、好きな曲があれば、いいって。
「歌ってみればいい、それが歌うのが恥ずかしいっていう、陰気な奴なら……どうしようもなかったら、弾いてもいいって、弾いてみても。
息遣いが乱れているのが、この距離だと痛いくらいにわかる。
「あんたがドラムやっているから私もドラム―――じゃあ、なくてもいいんだよな。
そうしなくても、何か別の、ひとつが……。
出来れば、いいんだな。
こんな簡単なことも気づけていない私が馬鹿だったんだな。
いやこんな簡単なことに……気付けず、に」
真弓……?
「まだ、《《なって》》いないから、よく聞けよ―――安心して聞け
「クレープさ、初めてのあの日
突然話題が変わる。
あと声のトーンが変わる。
内緒話のような。
え、もしかして、あたしにだけ聞かせるような話……?
「甘いもんが苦手なんだ。今さらだけど苦手だったわ。 だから別に美味しくなかった―――いや、まあ、悪ぃけど わからないものは、わからない
クレープは―――アレは、そこまで美味しくなかった。
アレを美味いと思える連中の気が知れない、とまくし立てる。
真弓は言う。
そうだ、最初はそうやって、夕暮れ時のスーパーで偶然会ったんだった。
朧げな記憶だけどあの頃、あたしはきっと夢呼に怒られるだろうなと思いながら、買い食いしていた。
「でも、でも……嬉しかったんだ
……。
「あんたのことが嫌いだった
手を放す、お互いの目が合った。
睨まれる?
と思ったけれど……(真弓はそういう表情をよくする)そうではなく。
どこか安らかな表情だった。
「で、それだけで―――終わらなくてよかった……嫌いなだけ、で終了しなくて、良かったよ、本当に」
風切り音のような何かが聞こえた。
あたしは背中から床に倒れた。
ドラムのスティックが音を立てて転がっていく。
お守り替わり。
そのつもりで、ここまで持ってきたんだけれど。
―――真弓に蹴られた。
ということを、尻もちついてから、理解した。
「早く行け」
真弓が、言う。
視線はもうどこかに外れていた。
ストッピングだ、と早口で言った。
あたしは空手詳しくないけれど、それが今の蹴りで、痛くない蹴り(たぶん)のことだということはわかった。
「まあそんなことは今、いいんだ―――ええい。 わからないか。 あんたが―――ここに、こんなところに居て、秒で死ぬ、理解れ。 理解しろよ。 どうしてそれがわからない」
ドアは次の瞬間にでも開けることが出来る。
ノブを夢呼が触れているはず。
「今までが、ちょっと運がいいだけだったんだ、わからねぇのか」
出ていけ―――という。
真弓は私の後ろを睨んだ―――七海、夢呼かな。
埒が明かないと思ったのか。
あたしでは駄目だと思ったのかも、しれなかった。
それはそうだ。
あたしは何も言えなかった。
見上げていることしかできなかったから。