第三十二話 きっと助けは来る
【11月29日 20:58】音響室
「ですからぁ! それじゃあ駄目だと言っているんです!」
YAM7のプロデュースを担当する丸根マネージャーだった。
彼は音響室の中でスマートフォンを耳に当て、奥歯を強く噛んでいた。
電話口で対応する相手はステージ上のYAM7メンバーではない、警察連絡を取っている。
今事件が起こっていること、規模が大きく、被害が室内からでは把握しきれないことなど。
自分の電話番号はもう伝えた。
警察とのやり取りはなかなか進まなかった。
「助けがまだです、まだ来ないんですが! ……全然助かっていないんだけど。ボクはねえ!この部屋以外は、だから無理で! 身動きが取れないんだ!だから外からじゃないと―――ええ。ええ」
ライブハウス『ビビアン』のスタッフ、玉置小梢は傍らでそれを聞いていた。
今だ、ドアの向こうは危険地帯。
じっくりとやり取りを聞く余裕は、なかったがそれでも現状はわかった。
助けと呼べるものはまだこの部屋の付近にはたどり着いていないし、まず状況が正確に伝わっていない。
「噛みついていた。ええ、そして食べていたんです。はい、ええ―――ええ!ですから、え……ハナシ? ハナシとは―――、話なんて出来ませんよ、そんな事、言っているじゃあないですか。ここまで聞いて何でそれが言えるんです?外部から誰かに助けてもらわないと無理なんだ」
普段は温厚な丸根さんが苛立っている。
玉置はそう思った。
バンドメンバーとのやり取りを知らない彼女からはそれ以外の印象でしかない。
無理もない、向こうだって、オペレーターの人だってこんなことを聞いてどうすればいいか、わかるはずもない。
『―――いましばらくお待ちください、警察官が向かいました。既に建物入り口に付いた者もいます』
「……それが終わりじゃアないだろう」
丸根マネージャーは唸る。
電話口の相手を威嚇するつもりなどない。
非難はしたいが。
状況をわかっているのかと。
わからせるのは至難だった。
警察に連絡は取ることが出来た、その余裕はいま、ある。
一歩前進と言えるだろう。
だがいざ会話に入ると、どう解決すればいいかが不安でしかない。
警察はどういった対応をしてくれるのだろう。
パトカーに乗った警官が数人?
やって来たところでこの騒ぎを止められるとは思えない。
「と、とにかく何とかしてください、通常の事件じゃあないんだ!もたもたしていたら騒ぎが大きくなる」
「丸根さん、息が荒いです―――落ち着いてください」
玉置がなだめる。
なだめる意味もあったが安全のためでもある、いまだその大して分厚くもない壁の向こうに、暴動者は彷徨っている。
きっと助けは来る、と玉置は思っていた。
ライブハウスの他の人たちだって、この状況を伝えるだろう。
連絡を、誰かが取っているはずだ。
玉置の視線、耳からは苦悶の声が聞こえ続ける。
声、呻き。
暴動者の出すそれと印象は完全に違うが。
マネージャーが懸命に訴える。
「ですから!パトカーが向かってきたところで何になるというのですか!三人や四人?話にならないですよ」
身振り手振りも交え、熱くなっていた。
もさもさとした頭が揺れて目立つ。
私も思う。
有効な解決法などあるのだろうか。
この状況。
脱出をした人間がいることはわかった。
一人や二人ではない。
階下の音の大群、大量の、走る足音。
入り口の一つから、何十人だろう、大勢が脱出した気配は見えなくとも伝わった。
YAM7の演奏の最中に、歌の最中に。
私は。
私と丸根さんは?
どうすればいいのだろう。
逃げた人間を、憎く思ってはいない。
ただ、ひどく心細かった。
置いて行かれたような気持ちだ―――私たちは此処から動けない。
だからだろうか、先程から何も変わらない。
丸根マネージャーは声をあげても、同じ会話のループのような様相である。
脱出が可能だろうか……二階音響室。
この場所から建物の外に出るための通路、階段……。
その景色を想像しただけでダメだと気づいた。
階段は狭い、ひとりでも《《いたら》》通せんぼだ……おしまいだ。
では、他にルートは……。
駄目だ、まず廊下に出る時点でリスクはある。
「くそう、あの子達だけ、なんで……」
丸根マネージャーは取り残されたメンバーのことも心配はしていた。
今現在、どこかの部屋に隠れているわけでもなく、少なくとも数百名と考えられる暴動者に向かい合っている。
隔てる壁はない。
いうなれば野晒しの状態。
丸根がここから観客席を回り込んでステージにまで向かうのは無謀である。
ステージではどうなっている。
音によって観客のコントロールがある程度できるということは、もうわかっている。
場内のスピーカーを使えばなんとかなる……今、この部屋のドアを叩いている奴がいないのも、そのおかげだ―――。
夢呼の発案でこの事件は停滞させている。
暴動者の動きの制限。
一時的に、食い止めることが出来ている。
だけど、それだけで無事でいられるものだろうか。
なお、彼は真弓が空手をやっていたことは知らない。
仮に知っていても、異常ともいえる戦闘力を想像はしないだろう。
昔たしなんでいた習い事など、皆何かしらあるものだ。
故に心配しかしていない。
「その通りですよ!早く来てください!ウチのメンバーが危険なんだ!逃げ場のない状況で、閉じ込められているというか、行き止まりというか、そういう状況なんだ、緊急だ。僕のことはいいから早く」
歯を食いしばりながらの対応となる。
声を荒げてはいけない―――外に聞こえる。
いや、演奏は続いているのだ、今のところはこの音響室の安全性はかなり確保された。
「警察じゃあ無理だ、私の意見だが、素人意見だが、おたくら、根本的にわかっていない。もっと大人数で―――封鎖をするしか。囲むのがいい。
か―――ただの喧嘩じゃあないんだ、みんな人間じゃあない」
『生存者がいる、無事な人間はいるのですね?』
「……いる。いやわからない、全部は見えない。音響室に二人。被害は今、減っていない増えている―――そして、ステージの上に四人だ」
結局電話口で伝えてもむなしいだけだ。
自分自身が
この会場の状況を、壁越しにしか理解できていないこともある。
危険性の説明すらできない。
「とにかく助けは大勢、組織的に呼んでいただきたい!警察だけじゃない、自衛隊でも、機動隊でも何でも!装備も気を抜かないでくれ!」
電話から耳を離す。
また激しいドラムから始まる曲が終わった。
ステージは見えない。
だが丸根マネージャーは一つ呟く。
あの曲は「振り返らずに歩いて」
ドラムの存在が際立つ曲だった。。
「愛花も、無事か……!」
―――――
また一曲、歌い終わった。
無論、終わりではない。
状況は終わっていない。
歌っても激闘を終えても、安全地帯などない。
ステージがかろうじてそうだが、いつここがつぶれるかわかったものではない。
ギターを握る真弓に声をかける愛花。
「真弓ぃ―――身体、大丈夫?」
「え?……ああ、これね」
真弓は自分の足元に視線を向けられていることに気付く。
「こんなの大丈夫だよ」
「でも痛いんじゃないの?……無理してる、絶対無理してる」
「もう大丈夫」
これは強がりではない、もう足の痺れは治まった。
なんとか、窮地は乗り切ったしこれでステージに敵はいない。
夢呼がマイクを下げて訊ねてきた。
珍しく心配そうな表情だ。
「真弓、警察の人と、闘るとき―――何かしゃべってたか?」
真弓はしばし固まり、意識にうつす。
変わってしまった、あの杜上との戦い。
マイクを握って声を張り上げていた夢呼には、その名前は聞こえなかったのか。
あるいは知っていても、意識したくないのか。
あんなことになった彼の名前を、人間を思い出すのはつらいこと、そうなのかもしれない。
……駄目だ、それは考えないようにしよう。
「え?……ああ」
見られていたか。
内なる自分との対話について説明するのは気が引けた。
恥ずかしいな。
こうやって聞かれると
けれどどんな人間にもある、過去はある。
思い出してしまう。
それだけだ。
空手を使う時は特に、幼少時に戻るのだ。
他はどうかわからないが私の場合は特にそうだ。
そして楽器を手に取っている時だけは、今を意識できる。
大人になったような―――そんな状態になる。
さて、どう伝えればいいか。
「大声で気合を入れ直していただけだよ―――、今から稽古は出来ないけれど気持ちだけでもと思ってね」
そう言うと一応黙った夢呼。
納得したのだろうか。
大声なら夢呼に説教できる立場などない私である。
まあYAM7のボーカルはこんなだから、私の気持ちなどわからないと思うけれど。
不安になったり、いやな自分を意識したり。
そうして落ち込むこと。
センチメンタルなそれが夢呼にはあるだろうか。
「まず精神からだ―――身体が言うこと聞かなかったからね」
「そか」
ああ、まあ、いい。
適当な様子で手をパタパタと振る夢呼。
何とかなったけどさ―――ああ、私なら何とかできるんだな。こんな暴力沙汰でも。
嫌になる。
「精神面に響くよ―――本当にね。 今回の件で私がモテない理由とか諸々が発覚したよ。ああいうの、無理なんだ。あれぐらい鍛えてあるオッサンを見ていると、何回蹴ったらぶっ倒れるのか確かめたくなる―――」
そんな自分がいる。
そしてそうでなければ今ここにいない。
ステージ下で白目を剥いてうろついているだろう。
「気を落とすなよ真弓」
ボーカルもドラムスも笑顔で慰め出す。
「そうだゾ真弓ぃ。自分に自信を持とうよ。たまに真弓みたいな子が好きな人もいるんだよ。きっと」
愛花はいつも優しいな。
「痛いのが好きな趣味嗜好を持つ?なんか変態っぽい人がね。聞いたことあるもん、SMっていうんだよ」
「あら、よく知っているわね愛花」
「えへへ……」
頭を掻いて照れるドラムス。
愛花は優しいな、と思おうとした、思おうとしたんだよ私も、途中までは。
しかし、いや待てや、待ちなさいよ。
なんで朗らかに談笑しているみたいな表情なんだこの三人は。
「あんたの慰めはフォローになってないんだよ……わりとなってないんだよ」
愛花は、この女は優しいとか包容力があるとか、そういうタイプの女ではない。
そう見えることは何度もあるのだが、なんか違う。
愛花の正体がつかめない。
どういう人間なのか同じバンドに属してからもつかめない。
「ごめん。あたしも途中から何を言ってるかわからなくなった」
強いて言えばアホなのかもしれない。
「あははは!ネットの海を探せばたまに流れてくるだろ!ボトルメールみたいにな!それくらいの確率だろ、見つかる確率」
私の考えたバンド名すらも汚していくぞ、このボーカル、どういうことだ。
と、ここで流れは少し変わる。
予期せぬ声が降ってきた。
空から、ではないが。
『みんな聞こえるか! 無事なのは四人だけか?皆もうすぐ助けが来る』
「おっと」
丸根マネの声を聞いたのは久しぶりに思えた。
そうか、音響室にいれば会場内にマイクで声を響かせることも、出来るだろう。
『今ボクは警察に連絡を取った、外部と協力する!……それまで耐えてくれ、耐えろ!助けは来る!必ずだ』
四人は黙って顔を見合わせた。
助かる―――助かる?
空からではないが天国なら感じてしまった―――かもしれない。
マネージャーからはっきりと救出の見込みを聞いたのは初めてである。
自分たちは手一杯だ。
しかし、それでも状況は動いている。
良い方に―――この四人だけで耐えて戦っているわけではなかった。
夢呼がマイクを構える。
『さあ ステージ上格闘のパフォーマンスも済んだところで それでもここはリングじゃあない 音楽メインでっ あくまで音楽メインで楽しんでもらうよ!』
観客席が一層にどよめく。
このステージもいつかは終わる、終わらせることが出来る。
希望はあった。