第二十五話 愛花のアイス 2
外灯が光りはじめた。
白く、どこか温かな光が、町のショッピングセンターの駐車場を照らしている。
「お父さんと、ねぇ」
となりには柄許愛花。
のちに同じバンドのメンバーとなる同級生と、二人きりになった夏の夜だった。
その表情には、真剣みがない。
この女は私のように悩まない性質に違いない、と、この日はそう思った。
「それで真弓ちゃんはそのあと?」
「その、あと……か……」
彼女からの質問に私は迷う。
親父と喧嘩した、闘った。
あそこまで対策を打って親父の技の癖まで逆手にとって―――そこまでやったあと。
そこまでのことを懸命にやったあと。
「―――そのあと何か、―――真弓ちゃんはどうするの」
どうするか。
別に何も変わらなかったし。
手に入るとか、そのようなことはなかった。
どうしてもそうだろう。
「ねえ、……」
「うん?」
「―――それ」
私は奴の右手を指差す。
より正確に言うならば、持ったままバニラ味のアイスを。
「きゃあ!」
夏の夕暮れ時だ、融け落ちそうになっていたそれに、素早く真下から食らいつく愛花。
もぐもぐと、焦りと笑顔の入り混じった表情でほおばる。
積載量の多い頬肉が揺れてはいなかったが、際立っていた。
「思ってたんだけどさ、なーんであんたに質問されなきゃならないわけ? ―――それで、私がちゃんと答えなきゃならないの?」
「もぐも……?」
他の人はどうかわからないけれど、他人に、何でも自分のことを話すのは気に入らない。
普通にリスクだと思っている私だった。
え、だってそうでしょう?
私は、なんで初対面……初めて話す愛花に。
初めて話すことになった彼女に、家庭事情まで話して。
このへらへらした性格、お喋りな能天気女……。
何がきっかけで学年中に言いふらすかわからないのに。
……いや。
どちらにせよ、どうでもいい。
あそこまで全力で対親父戦をやっておいて、今更もう、どうでもいいかな。
不思議と清々した気持ちもあった。
やれるだけのことはした。
そんな私。
もはや何をどうしようが変わらない私の人生。
諦め、諦観。
「教えてくれない?あたしからも質問したいよ―――駄目じゃあないよね」
愛花がにやける。
……それだ。
その前に、それだ。
「あんた―――さ、それ、馬鹿にしているの?」
「何が?」
「いつもその―――にやついた表情」
愛花は、何を言われているかわからない、というような戸惑い。
その顔も幼く、私は本当に高校生と話しているのかと苛立った。
どんな事だろうと苛立つ心境の私だった。
「真弓ちゃんは笑っている人、嫌い……?」
「……そうじゃあないけれど、いや、気になる」
私は。
笑顔で毎日を過ごすことが出来ていない。
「教室で、自分よりも楽しそうに―――過ごす。過ごしている人がいる―――」
それを、毎日、教室で見る、見せられる。
自分よりうまく、それが出来ている人がいて。
そんな日々が、時間が続く。
私は―――そんな時、苦しく、辛い気持ちになる。
「無理だ……嫌だって、思う……そういうふうに思う人は―――いるよ絶対」
最後は、言い訳みたいにぼやかした。
私の意見じゃあないよ、というような。
皆が言ってるよ、的な。
「自分より―――楽しそうな人がいると、辛いよ。隣の家でそんな風に笑っていて、でも自分は親をぶっ倒すために血眼になっている。なったよ―――私は」
現実だった。
そんな現実に、耐えきれない。
私は……。
「真弓ちゃんがそう言うなら……そういうことなら、わかったよ」
悲しそうに目を伏せながら、残念そうに。
やはり頬を釣り上げた。
「笑ってるよね、やっぱり」
「……ごめんね?」
「面白い女だと思ってるんでしょう……私は、おかしい?そこまでおかしい?」
「ふえ? なんで……?」
親と喧嘩して家出。
あの組手に至るまでの過程も家庭も、かなり特殊ではある私だった。
けど家出は家出だ。
わかりやすい思春期の親子喧嘩と一笑に伏す者もいるだろう。
愛花はそれか?
そうしている女なのか?
クラスメイトである私をあざ笑うこともできる、黒い部分も持ち合わせているのだろうか。
わたしを笑っているだけなのだろうか。
それとも普通の馬鹿なのだろうか。
愛花は硬直しつつ、答える。
「…………なんで?」
「なんでって―――」
「笑うのが駄目とは困ったね。手厳しいですぜ……今は、アイスが美味しいからかな。それで笑ってる」
ゆるりと宙に描く軌跡。
愛花の右手には既に、木の棒―――アイスは完全に食べ終わったようで。
近くに置いてある白い袋の中にパッケージが見えた。
多分一番安い奴だ。
それを食べているから、楽しい?
毎日?
「アイスだけじゃないよ。あとは―――毎日、好きなことをしているからかな?」
「好きな……ことを?」
「うん。 ドラ……ッ、」
「……ドラ?」
私が目を細め、首をかしげると、愛花は両掌を口と頬にべったりと貼り付け、やばい、やっちまったというような目をしていた。
「ひみつ!だ!」
なんだそれ。
ドラから始まる言葉ってなんだ?
「ドラ○もん?」
「うぬーう。 好きだけど~ぶっぶー!違います」
でもなんだっていいの、と愛花は言う。
すごく簡単だから。
毎日、好きなことをするだけ。
「あとは笑える理由かー。夢呼がいるからかなー。」
「……そ」
いるんだな、友達。
あの愛花にも。
この頃は、夢呼を知らない私だった。
ユメコ。誰だろう、違うクラスの子かな、なんて思っていたけれど。
この女はこの女で、中学までとかにそれなりのコミュニティを築いてきたのだろうさ。
「好きなことを―――」
鍛錬を旨としてきた自分には、理解が及ばなかった。
好きなこと?
もうずいぶんと―――遠い存在に思える。
最近は特に、わからなくなっていた。
―――――――
その白い外装がやや変色したショッピングセンター。
食品売り場だけでなくクレープ屋さんがあり、それを眺める。
わかってるよ。
私だって、今の自分がすごくいいなんて---思わない。
正しいとも思わない。
「あんたは……アイスが好きなんだね……」
「ん……?」
店の敷地内、点いたばかりの外灯に照らされ、女子が二人、笑いあっている。
その手に持っているのは、クレープ。
歩いて行く―――。
違う制服だ。
たぶん、私たちよりも大人びた生徒だから、ひとつふたつ、先輩かもしれない。
「クレープ……」
「クレープ?」
愛花は、真弓の視線を追う。
ああ、あれが食べたいのかあ。
へえ、本当に?
可愛らしいところがあるんだなあ、と一層明るい笑みを真弓に向ける。
意外と話せる女子なのではないか。
そう思ったのが表情にすぐ出る。
「クレープが食べたい?そう、あれ食べたいな―これ食べたいなーって、思わなきゃ駄目だよ人間はぁ真弓ちゃんも笑えばきっと―――」
「食べたいし、」
「もっと食べたいの?」
「食べながら。食べ歩き、町を……いろんなお店に行きたい。どこでもいい、行ったことのないお店なら。今までできなかったことをしたい。休み時間友達と、話して、土日とか買い物行って服買いに行ったり行かなかったりして、なんか、友達とだべって、スマホいじるしか能がないような生徒、それでも、よかった。勉強だって―――まあ行きたい大学とか全然ないけれど。頑張って今以外の何かになれれば……。芸能人とか、好きになるのもいいな―――正中線を効率的に破壊する方法以外のことを好きになりたい……グッズだって買って、アイドルとか。男でもいいけれど女でも、やっぱ、好きになれて。クラスの気になる男子のお話とかして、噂話―――本当に楽しい噂話だ―――それをして。その人に好かれる努力とか、やっぱり、して……でも結局その男子の近くに行くとなんにも上手く話せなくて……勇気は、それくらいの、その、普通で。男子とは喧嘩はしなくて、いやケンカしても、なんか柔らかいの、もうみていてニヤニヤ出来るような程度のやつ……やり取りで。親父……お父さん、と喧嘩はそりゃあするけれど、普通の……壮絶じゃあないやつで。うん、普通にお父さんと、その子供って感じで、いたい……本当はあんなことをしたくなかった。 弱小な女子で。 つまりそんなにすごい青春は送れなくて。 何気ないことで一喜一憂して。それをしたい。 転がってそうな、日本の、どこのクラスにでもいそうな。そんな毎日にしたい」
どこにでもいそうな。
なんかどこにでも、転がっている人になりたい。
大したことないヒトに……なりたい。
女子になりたい。
……もしかして、愛花に、嫉妬していたのかな。
「真弓ちゃん。知らなかったけれど―――なんか、マユちゃ……すごく欲張りだったんだね」
優しい笑顔を私に向けた。
「駄目かな」
ゆっくり首を振る愛花。
「完全にそれでいいと思うよ。なんか夢呼みたい」
だから誰だよそいつ、と私は思った。